2021年ももう終わりということで、今年一年の振り返りをしたいと思います。
普段は常体で書いていますがなんとなく今回は敬体で。
このブログは更新を終了しました。移転先はこちらです。
一年の総集編として、今年このブログに書いた全ての記事からそれぞれ一部分をピックアップしてみた。
記事の内容の核になっているとは限らないが、このブログがどういうブログかが大体わかると良いなと思ってコアな部分を選んだつもりでいる。
このブログを開設してから書いた記事が40本になったらしい。
ここを作る前にもいくつかのブログを開設しては削除し、noteも数回集中的に書いては途絶えということを繰り返したのだが、それらと今とで違っていることがひとつある。書き始めた時と書き終えた時とでの自分の変化である。
前回の記事以降、ブログを書く以外のことに意識が向いていて少し間が空いてしまった。
他のこととは、CSSを書いたりJavaScriptの勉強を始めたりGitで古いファイルの分岐の混乱を解消したりDynalistやScrapboxに情報を整理したりといったことで、それはそれで日々進歩があって気分は充実しているのだが、とはいえ「投稿する」ということをしないでいると私としては人生の蓄積を感じられない。やはり人に読んでもらうに足る文章を生産する努力を継続することが自分にとって必須なのだろう。
先月いっぱい、ブログの書き方ド下手問題と題して「ブログを投稿する」ということが如何に難しく厄介な試みであったかを語った。
ブログの投稿には本当に苦戦したのだが、一方で、文章を書くことそのものは(客観的な上手い下手はともかくとして)それほど苦手ではないようである。とりあえず、自分の中では他のあらゆる表現手段より文を書くのが自然で苦労のない選択だ。
とはいえ、何も意識せずにスラスラと書いているとかいうことではない。ひとつ気をつけていることがあって、今回はそのことについて書いてみようと思う。物書きでもないのにそういう話をするのは烏滸がましいようだが、自分の頭の中をメモとして書き留めているだけということで許されたし。
デジタル日記の試み語り第四回。今回で現時点の試行錯誤の報告としては最後になる。
デジタル日記の試み①~Scrapboxに日記用プロジェクトを作ってみる~
迷走時代→Scrapbox→Notion+Word、と来て、結局今どうしているのかという話をしていく。
デジタル日記の試み語り第三回。
前回は「日誌」をNotionにつける試みについて書いたが、今回はその間「日記」をどのように書いていたかという話を書いていきたい。
デジタル日記の試み語り第二回。
今回は日記というより日誌だが、それにNotionを使ってみたパターンについて書いていきたいと思う。
ここ数ヶ月、Notionを生活に取り入れている。必要に迫られてのことではなく、「見た目が綺麗だと嬉しい」「ピックアップが楽だと嬉しい」というようなふわっとした動機でごく個人的な情報を扱っている。期待しすぎることもなく、また「服に着られている」かのように「ツールに使われている」ということもなく、ちょうどよく活用できているように思う。
ブログ日誌と書くとブログの記事のタイトルとしてなんだか変だが、ブログについての日誌(=近況報告)を書くよということを意味している。
今回は、ブログの書き方ド下手問題で考えたことを踏まえて、自分がブログに書いていく内容を整理したい。
一旦締めますと言いながらなんとなくずるずる続いている「ブログの書き方ド下手問題」の第七回。過去の回の記事はこちらからどうぞ。
今回は「結論が出たのになぜかブログ記事にできない」問題について。
ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第六回。過去の回の記事はこちらからどうぞ。
今回は「自分が実際にやっていること」を書くことについて。
前回、Officeソフトをまた積極的に使い始めたという話をした。
今回はOfficeソフトの見た目を自分仕様にするということについて。(文中でもしつこく繰り返しますが、正解は各人の胸の内にあるので、私の仕様を推そうとして語るわけではありません)
先月下旬から、日記をWordで書くようになった。先々週あたりからは思考を図表化する用途でPowerPointを使い始め、ここ数日イシューの類の管理やブログネタの育苗の場としてExcelを活用し始めた。
懐かしさと新鮮さでとても楽しい経験をしている。
ブログを書くことについて延々迷走している。迷走していない瞬間がないと言っても過言ではない。
と言っても私の場合は投稿をさっぱりしていないので(半年で二十本程度)、方向性の混乱が読み手に伝わっているわけではないだろう。方向性を感じるほど継続的に書いていないからだ。アウトプットに至る前の空間で迷走していて、書けないまま人知れずうろうろと彷徨っている。「作家になりたいと口では言っている人」のごとく、心が空回りするばかりで実績を構築できない。
アウトライナーなどを用いてアウトライン形式で情報を取り回す時に行う作業をどう表現するか、というのはなかなか難しい問題である。
以下、内容の種類にかかわらずアウトラインの形をしている状態(親項目があり、その下にインデントされた子項目があるという形態)を「アウトライン」と表記する。
自分の関心の領域を示すためには名前があってほしいので、これまで「知的生産界隈」などという表現で自分の関心を説明していたが、正直なところ「知的生産」という言葉は自分には合っていないので、言い換えを試みたい。
先日、倉下忠憲さんとゲストのTak.さんのポッドキャスト、「うちあわせCast」の第七十八回を拝聴し、何かを書くにあたってその範囲を内容または形式・サイズで制限するということについて語られており、思ったことがあったので書いていこうと思う。
なお、『ライティングの哲学』はまだ読めていないので、ひょっとしたら答えが全部そこにあるのかもしれないけれど、自分で思いついたことを自分で書くことをとりあえず達成したいので、まず書くことにする。
今更ながら今年になってGitとGitHubを活用し始めました。
と言っても、プログラムを書く人間ではないので専らメモの管理である。メモとはつまり文字を使って書き留めた情報全般のことを指す。私の場合は今のところMarkdownファイルとtxtファイルがGitHubのリポジトリのほとんどを占めている。
④の「よん」と余談の「よ」がちょっと掛かっているかな、と思ったけどそうでもなかった。
さて、「発想を文脈から解放するには」という一連の話としてはとりあえず①の「元の文脈を保存する」、②③の「転用し得るフレーズを作る」というふたつの結論で完結しているのだが、余談があるのでついでに書いておきたい。
今回は、アイデアを元の文脈から切り離して別の文脈で活用するために必要な具体的な手順を考えてみる。
やることとしては、前回まとめたように「条件」+「現象または結論」という形にすることを目指していく。
叩き台は、この一連の記事冒頭で作った「始まった状態で始める」というフレーズである。
アイデアを元の文脈から切り離して別の文脈で活用するために必要な条件とは何か。
前回、そのひとつとして「元の文脈をきちんと保存すること」について書き、そのふたつめは「転用し得るフレーズを作ること」であるというところまで書いた。
ブログを書く上での地味な悩みとして、「導入をどうするか」というものがあり、ぬるっと入っていくうまい書き出しが思いつかなくてしばしばエンジンがかからず仕舞いになる。一ヶ月半ほどの空白ができた理由のひとつでもあるのだが、しばらく考えて今しがた出した結論は、「導入などない」である。
ということで、今回は「発想を、元の文脈から離れて使う」はどのような条件で可能になりそうかということを考えていく。より抽象的に言えば、文脈と連想についての思惟である。
あらすじ
今回考えたいのは、「文脈を与える」という表現で言い表したかった意味合いについてである。
タイトルに「Obsidian日誌」と示している通り、これは私個人の模索を記録したシリーズとして書くものである。
以前noteに書いた記事にて、Zettelkastenでノートを作る際には「Index or Structure notes」という役割のページが生み出され、私は(jMatsuzakiさんに倣って)それを「構造ノート」と呼んでいますという話をした。
この記事の中で当時の私は、構造ノートの意義を「自分の問題意識に基づいて複数のノートを構造化し、文脈を与えるために存在しています。」と書き、また「シールを集めるための台紙のようなものです。」と喩えている。
これを書いたときはそれで明瞭に定義できているかのような気分になっていたのだが、それから一ヶ月と少し経ち、なんとなく肝心なことを言えていないような気分がじわじわと滲み出てきた。
普段、日記や考え事にはObsidianというMarkdown管理ツールを使っている。
Obsidianとは何かということについては、簡潔に言い表すのが難しいので以前noteに書いた記事をお読みいただけると幸いである。この記事の最後に素晴らしい解説記事の数々へのリンクも貼ってあるのでご活用いただきたく。
さて、毎日Obsidianを使ってあれこれメモして考えて熟成させてということをしているのだが、ObsidianはPC用のデスクトップアプリであり、Obsidianの優れた検索・リンク機能はスマートフォンでは使えない。似た環境を用意できるものとしてiPhoneでは「1Writer」というアプリが良いらしいという話は聞くが、当方はAndroidを使っているのでそのアプリには頼れない。ゆえに、スマホからファイルを開きたくなったときにどういう格好であったらよいだろうかということを前から考えていた。
唸っているうちにはたと思い出したのが、「DoMA式」である。
「アウトライナーの使い方ド下手問題」を締めてから、どういう括り方で書いていこうかと考えていたのだが、私にはやはり人様への提案ではなく自分のトライアル・アンド・エラーの吐露が合っていそうである。
よって、今後は「アウトライナー日誌」というシリーズで書いていくことにした。うまくいっているかもしれないし、いっていないかもしれないが、誰かの何かの参考になれば幸いである。
さて、今回は「アウトライナーを何のために使うのか」という話である。
ここまで五回にわたり「私はアウトライナーの使い方が下手くそだった」という話をしてきた。アウトライナーについて話したいことはまだ尽きないが、「アウトライナーの使い方ド下手問題」というテーマとしてはここでひとつの区切りとしたいと思う。
今回は各記事の簡単な振り返りと、今私がアウトライナーに対して持っている認識の整理をしていきたい。
今回が一応この連載の最後の内容となります。
前回までは、いずれも「アウトライナーというツールにどういうスタンスで向き合うべきか」という観点でのド下手要因について考えるものだった(と今気がついた)。
今回は、アウトライナーをそれなりに活用できている状態で、それでも発生するストレスについてひとつ考えていきたいと思う。
それは何かといえば、「最終形態が"未完成"のまま問題」である。
少し間があいてしまいました。
前回は、なぜ倉庫化するかという問いについて、主に情報を置いていく過程で発生する問題を考察した。主に扱う対象が広すぎること、アウトライナーを使った模索にケリがつかないことがゴミ屋敷化を招くという話をした。
今回はそれよりも基本的な、ツールとの向き合い方について考える。
ここまで私がアウトライナーを適切に使えなかった要因を書いてきたが、まとめ直すと以下の通り。
前回、「情報がエネルギーを失い静的になっている」という失敗体験に対し、アウトライナーは「動的」に保ってこそアウトライナーであり、つまり「今」作業するためのものとして使うのがよかろう、という話をした。
今回は「『倉庫』として使おうとしていた」問題の二つ目、「情報の種類が雑多で量が多い」ということについて考えていきたい。要するにゴミ屋敷化である。
アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由がある、という話の続き。
前回はアウトライナーの「きちんとしている感」、分解すると「箇条書きという形式の引力」と「ツールの洗練された見た目」から来る要因を書いた。
今回は理由の二つ目、「『倉庫』として使おうとしていた」ということについて考えていこうと思う。
前回、アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由があると書いた。
今回はひとつめの要因、「『きちんとしている感』に負けている」ということについて詳しく考えていきたい。
アウトライナーというものは大変にスグレモノである。という確信のもと、何度も活用を試みては何故か挫折するということを繰り返してきた。
挫折というのはつまり「使い続けられなくなる」ということだが、情報を管理するタイプのツールに於いては、その理由として例えば「ツールの機能が不足している」「UIとの相性が悪い」「自分で集めた情報が自分の望まない形に複雑化している」といったことがあると思う。その中で、私がアウトライナーとこれまで幾度も格闘して繰り返したのは、最後の「自分で集めた情報が自分の望まない形に複雑化している」ということである。すなわち、「情報の集まりが自分のイメージ通りに育っていかない」、そして「結局どこに何を書いたのかよくわからない」という事態を引き起こしているのだ。
情報をスッキリ整理するためのツールなのに、何故か煩雑化している!
これは無論アウトライナーというツールの側に問題があるのではなく、その使い方が下手くそであるということに尽きるので、それを解決すべく、理由と解決策を考えていくことにする。
私はどうも書く「場」の力を借りないとうまく書けないらしい。
具体的に言うと、ブログにしろnoteにしろその「場」の投稿画面を開かないといまいち文章が思い浮かばない。話の根幹になるアイデアはどのツールの前でも思いつくのだが、文章を書くとなるとなかなかそのようにいかない。特に、アイデアを記録するための「場」と文章化の「場」の共有はキーボードを叩く手を鈍らせる。
つまり、今自分自身に関する情報と思索をObsidianにまとめている一方で、Obsidian上で文章を書くことには困難を感じているのである。
原因は何だろうか?
ブログを立ち上げるのは一体何年ぶりのことになるだろう。
昔から書き続けてきた人々が皆自分なりの膨大なアーカイブを作り上げている中、私はブログを始めては消し始めては消しの根無し草で、これが私の歴史ですと見せられるものがない。思考は手元のノートと端末の中にだけ蓄積し、日を浴びることなく埃を被っている。
何度試みても一所に定住できなかったのは、自分が書いて投稿したものが、結局のところ好きではなかったからだ。書けば書くほど、自分が嫌いになっていく。無理をして生きているのがわかる。年月を置いて振り返るまでもなく、自分自身が痛々しいとすぐに気づいてしまう。しばらく誤魔化して書き続けてみるも、やがて耐えられなくなり全てを消し去ることになる。それは人に何かを言われるまでもないことで、第一誰かに「痛い」と思われるほど読まれてもいなかっただろう。他者の目など関係なく、自分が自分の存在を許せないのだから、自分の痕跡を残すという行為に耐えられるはずもない。
ブログというものは、自分自身をきちんと好きか、自分の痛々しさに見ないふりをし続けるか、全く別の存在を演じるか、金のためと割り切って一切の自我を消すか、そのいずれかでなくては継続できない気がしている。どの道も選べなかった私は、「考えたい」「そして書きたい」という欲求を燻ぶらせながら、どこにも行けずに長いこと膝を抱えていた。