タイトルに「Obsidian日誌」と示している通り、これは私個人の模索を記録したシリーズとして書くものである。
以前noteに書いた記事にて、Zettelkastenでノートを作る際には「Index or Structure notes」という役割のページが生み出され、私は(jMatsuzakiさんに倣って)それを「構造ノート」と呼んでいますという話をした。
この記事の中で当時の私は、構造ノートの意義を「自分の問題意識に基づいて複数のノートを構造化し、文脈を与えるために存在しています。」と書き、また「シールを集めるための台紙のようなものです。」と喩えている。
これを書いたときはそれで明瞭に定義できているかのような気分になっていたのだが、それから一ヶ月と少し経ち、なんとなく肝心なことを言えていないような気分がじわじわと滲み出てきた。
まず「構造化」という三文字であっさり片付けてしまっている部分だが、そこには具体的な行動がひとつ以上存在しているはずである。
自分で集めてきた或いは生み出した情報を構造化すると言った場合、私が実際に行う行動はおそらく以下の通りである。
- 関連する全情報を探し集める(探し集め続ける)
- 種類で分別する
- その分類の定義を言語化して明示する
- 段階を可視化する
- その意図と理由を言語化して明示する
- 全体を見渡して不足要素を探す
- 不足要素を適切な種類と段階に位置づける
- 位置づけの理由を言語化して明示する
- 調べるか考えるかして不足要素を埋める
- 全体を見渡して構造の核を見出す
- 全体像を言語化して明示する
単純化すると、「探す」「仕分ける」「言い表す」の三種の行動を何周かしていることになる。うまく構造化できていると感じるときはこの一連が無意識に行われているのである。
しかし、この工程は今自分を振り返って「こうしているということなのだな」と思って書き出したものであり、つまり昨日まで全体をはっきり把握してはいなかった。自覚がないということにより、「前は構造化できた」という成功体験がありながら、「でも今回はうまくいかないなあ」と理由もわからずもやもやと悩んで時間を空費する事態が生じる。
私が特に陥りがちなのは、「構造化しよう」という意志に引っ張られて、形式的に整えようとするパターンである。一度うまくいった構造を分析して次もそれでやればうまくいきそうに感じるからだ。
ところが、個々人が多種多様な情報を千差万別の目的意識によって収集して整理するとなれば、構造の種類も多様になって当然のような気がしてくる。一度うまくいった構造が次も使える保証はない。個人の好みや思いが反映される以上は、ビジネス文書や学術論文のような画一的な形式にはなり得ないと言ってもいいだろう。うまくいったものをヒントにはできても、それをそのまま使い回せると無警戒に信じるべきではない。
自分の関心によって構造の形は変わっているにもかかわらず、そのことがしばしば忘れられてしまうのはなぜか。
それは、その構造がどうしてそこで成立したのかを自分ではっきり認識できていなかったからだろう。上記の工程でしつこく繰り返している、「言語化して明示する」の部分が欠けているのである。「今回の場合はこう感じたからこうなったのだ」という脳の動きを把握して記しておかなければ、その事例の特殊性が認識されない。そうなると、それらしく抽象化して考えることによって使い回せそうな枠組みをでっち上げ、なんとかして他の情報にも同じフレームを当てはめられないかと格闘し始めたりすることにもなる。実に不毛な苦闘である。
構造化するにあたって考えるべきことのパターンを先んじて用意することはできても、構造そのものはその都度考えていかなければならないし、それはその対象を腑に落ちるまで理解することと同義であって、自動化は不可能なのである。
したがって構造ノートの作成とは、「構造化」のボタンをポチッと押せば一瞬でできるような簡単なものではなく、言い換えるならば「対象を通して自己を綿密に怠りなく観察すること」と表現できるかもしれない。
次回は「文脈を与える」ということについて考えることにする。