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2021-03-27

アウトライナーの使い方ド下手問題~まとめ~

 ここまで五回にわたり「私はアウトライナーの使い方が下手くそだった」という話をしてきた。アウトライナーについて話したいことはまだ尽きないが、「アウトライナーの使い方ド下手問題」というテーマとしてはここでひとつの区切りとしたいと思う。

 今回は各記事の簡単な振り返りと、今私がアウトライナーに対して持っている認識の整理をしていきたい。

2021-03-25

アウトライナーの使い方ド下手問題⑤~事前アウトラインと事後アウトライン~

   今回が一応この連載の最後の内容となります。

 前回までは、いずれも「アウトライナーというツールにどういうスタンスで向き合うべきか」という観点でのド下手要因について考えるものだった(と今気がついた)。
 今回は、アウトライナーをそれなりに活用できている状態で、それでも発生するストレスについてひとつ考えていきたいと思う。

 それは何かといえば、「最終形態が"未完成"のまま問題」である。

2021-03-23

アウトライナーの使い方ド下手問題④~オールインワンという幻想~

  少し間があいてしまいました。

 前回は、なぜ倉庫化するかという問いについて、主に情報を置いていく過程で発生する問題を考察した。主に扱う対象が広すぎること、アウトライナーを使った模索にケリがつかないことがゴミ屋敷化を招くという話をした。
 今回はそれよりも基本的な、ツールとの向き合い方について考える。

2021-03-18

アウトライナーの使い方ド下手問題③~「自分」はもはや「宇宙」である~

 ここまで私がアウトライナーを適切に使えなかった要因を書いてきたが、まとめ直すと以下の通り。

  1. 「きちんとしている感」に負けている
    1. 箇条書きという形式の引力に負けている
    2. ツールの洗練された見た目に負けている
  2. 「倉庫」として使おうとしていた
    1. 情報がエネルギーを失い静的になっている
    2. 情報の種類が雑多で量が多い

 前回、「情報がエネルギーを失い静的になっている」という失敗体験に対し、アウトライナーは「動的」に保ってこそアウトライナーであり、つまり「今」作業するためのものとして使うのがよかろう、という話をした。
 今回は「『倉庫』として使おうとしていた」問題の二つ目、「情報の種類が雑多で量が多い」ということについて考えていきたい。要するにゴミ屋敷化である。

2021-03-11

アウトライナーの使い方ド下手問題②~アウトライナーは「今」のものである~

 アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由がある、という話の続き。

  1. 「きちんとしている感」に負けている
  2. 「倉庫」として使おうとしていた

 前回はアウトライナーの「きちんとしている感」、分解すると「箇条書きという形式の引力」と「ツールの洗練された見た目」から来る要因を書いた。
 今回は理由の二つ目、「『倉庫』として使おうとしていた」ということについて考えていこうと思う。

2021-03-07

アウトライナーの使い方ド下手問題①~「きちんとしている感」との格闘~

  前回、アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由があると書いた。

  1. 「きちんとしている感」に負けている
  2. 「倉庫」として使おうとしていた

 今回はひとつめの要因、「『きちんとしている感』に負けている」ということについて詳しく考えていきたい。

2021-03-05

アウトライナーの使い方ド下手問題~はじめに~

 アウトライナーというものは大変にスグレモノである。という確信のもと、何度も活用を試みては何故か挫折するということを繰り返してきた。

 挫折というのはつまり「使い続けられなくなる」ということだが、情報を管理するタイプのツールに於いては、その理由として例えば「ツールの機能が不足している」「UIとの相性が悪い」「自分で集めた情報が自分の望まない形に複雑化している」といったことがあると思う。その中で、私がアウトライナーとこれまで幾度も格闘して繰り返したのは、最後の「自分で集めた情報が自分の望まない形に複雑化している」ということである。すなわち、「情報の集まりが自分のイメージ通りに育っていかない」、そして「結局どこに何を書いたのかよくわからない」という事態を引き起こしているのだ。

 情報をスッキリ整理するためのツールなのに、何故か煩雑化している!

 これは無論アウトライナーというツールの側に問題があるのではなく、その使い方が下手くそであるということに尽きるので、それを解決すべく、理由と解決策を考えていくことにする。

2021-03-03

情報整理と執筆作業は「有機度」が異なるせいでひとつのツールに同居させられない

 私はどうも書く「場」の力を借りないとうまく書けないらしい。

 具体的に言うと、ブログにしろnoteにしろその「場」の投稿画面を開かないといまいち文章が思い浮かばない。話の根幹になるアイデアはどのツールの前でも思いつくのだが、文章を書くとなるとなかなかそのようにいかない。特に、アイデアを記録するための「場」と文章化の「場」の共有はキーボードを叩く手を鈍らせる。

 つまり、今自分自身に関する情報と思索をObsidianにまとめている一方で、Obsidian上で文章を書くことには困難を感じているのである。

 原因は何だろうか?

2021-03-02

Restart

 ブログを立ち上げるのは一体何年ぶりのことになるだろう。

 昔から書き続けてきた人々が皆自分なりの膨大なアーカイブを作り上げている中、私はブログを始めては消し始めては消しの根無し草で、これが私の歴史ですと見せられるものがない。思考は手元のノートと端末の中にだけ蓄積し、日を浴びることなく埃を被っている。

 何度試みても一所に定住できなかったのは、自分が書いて投稿したものが、結局のところ好きではなかったからだ。書けば書くほど、自分が嫌いになっていく。無理をして生きているのがわかる。年月を置いて振り返るまでもなく、自分自身が痛々しいとすぐに気づいてしまう。しばらく誤魔化して書き続けてみるも、やがて耐えられなくなり全てを消し去ることになる。それは人に何かを言われるまでもないことで、第一誰かに「痛い」と思われるほど読まれてもいなかっただろう。他者の目など関係なく、自分が自分の存在を許せないのだから、自分の痕跡を残すという行為に耐えられるはずもない。

 ブログというものは、自分自身をきちんと好きか、自分の痛々しさに見ないふりをし続けるか、全く別の存在を演じるか、金のためと割り切って一切の自我を消すか、そのいずれかでなくては継続できない気がしている。どの道も選べなかった私は、「考えたい」「そして書きたい」という欲求を燻ぶらせながら、どこにも行けずに長いこと膝を抱えていた。