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2021-03-07

アウトライナーの使い方ド下手問題①~「きちんとしている感」との格闘~

  前回、アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由があると書いた。

  1. 「きちんとしている感」に負けている
  2. 「倉庫」として使おうとしていた

 今回はひとつめの要因、「『きちんとしている感』に負けている」ということについて詳しく考えていきたい。


 ところで前回書いたようにアウトライナーの使い方はド下手なのだが、それならアウトラインを作らないでいるのかと言えば、そんなことはない。前回挙げたアプリまたはソフトウェアにその場限りのファイルを作ることもあるし、テキストベタ打ちで実質的なアウトラインを組み上げることもある。また小説を書く趣味があるので、プロットは作品ごとに何かしらの形で構成している。この記事はクラウド型アウトライナーのTransnoに作ったアウトラインを元に書いている。
 出来はどうあれ、アウトラインを考えて順番を検討して文章にしていくという工程は習慣になっている。


 さて、アウトライナーというものは(アウトラインプロセッサーではなくアウトライナーは)※1、要素を全て箇条書きで入力することが基本である。
 各行にノートを付け加えることは可能だが、全体をコピペしようとしたときの挙動なども含めて考えると、ノートを「文章を書く場所」として積極的に使うのはあまり現実的でない。そもそもそこに文章を書いてしまうと、アウトライナーの最大の特長である「項目の操作」が自由にできなくなってしまい、本末転倒な事態に陥る。

 よって、アウトライナーに何かを書くならば箇条書きの形で書くことになるのだが、ツールの形式が箇条書きだと、「箇条書きにする」という意識が自分の中で強く働く実感がある。
 つまり、「その要素を、そこに置く」という意識が生まれるのである。
 私は先日書いたように「場」の引力のようなものに強く引っ張られるようなので、余計に影響が大きいのかもしれない。(或いは、そういう影響は誰しもごく普通に生じるものかもしれない。)

 それがプラスに働くことはもちろんあって、プラスに感じているうちはどんどん書いていくのだが、時々それが足枷になる場面にぶち当たる。
 新たに思いついていることが、既にそこにある項目と何かしらの関係を作り上げられるとか、あるいは単体で新たな骨格を導く力を持っているとか、要は「そこに書く」ということにそれなりの納得感があるならば良いのだが、そうではない思いつきというのが必ず生まれる。
 その時点でどこにも位置づけられないものを、しかし箇条書きである以上は「位置づけられないという項目or場所に位置づける」ことにせざるを得ないという事態が発生するのである。(これが違和感になるかどうかは個々人の性質によるものと思う。)

 そしてこの「どこにも位置づけられない思いつきの集合」が比較的短い時間で解体されていくのならよいのだが、ある程度はどこかへ巣立っていかせられても全てに就職先を斡旋できるわけではないし、もしデイリーやウィークリーで区切るということをしないならばむしろ膨張していくばかりである。「位置づけられないという場所に位置づけられた情報」が、どこかに位置づけられたいというメッセージを放ちながら、ほとんど無秩序にごちゃっとまとめられたままになる。いつか使えるかもしれない原石の山、と大きく構える心は残念ながら持てずにいる。
 これがもし、日記帳に書かれた一文やTwitterに放流された一言ならばこういう不本意さは生じないだろう。その文言に「より適切な居場所」を与えて活用を期待する気持ちが、自分の中にないからである。それを後から活用できたとき、それはあくまで「ラッキー」なことに感じるのだ。


 次はアウトライナーの見た目について考えてみよう。

 例えばTransnoはデザインがシンプルで洗練されていて、言葉を並べていくと如何にもピシッとスッキリしていくような実感がある。Workflowyもそうだろうし、Roam Researchもそうだし、Dynalistもそういうデザインを選べる。アウトライナーは総じてとても美しい見た目をしている。

 つまりアウトライナーは、見た目からして「きちんとしている」感じがする。「きちんとさせていく」ためにある(と私は解釈している)ツールなのだから、それは当然とも言える。生活感溢れる雑然とした場所では思考の整理も難度がやや上がりそうである。
 そして、きちんとしている場に、きちんとなることを目指して言葉を置くとすると、書き込む時点で少しでも洗練させた形にしたくなるかもしれない。キチッと、ズバッと、スパッと、良い感じのフレーズを置けたらアウトライナーを使いこなしている感じがする――

 言うまでもなく、その感情はアウトライナーを使うにあたって本質的でも必然的でもないだろうし、その引力を意識的に利用するのは良いにしても、そういう「形」を第一にしてしまうと自由に使うことができなくなるのは必至だ。「良い感じのフレーズ」は、いきなり出てくることもあり得はするが、思考を捏ねて捏ねて捏ねた先にやっと形作られる一粒ということも多いだろう。ならば思考を深める場というのは、良い感じのフレーズも置けるしそうでないものも普通に並べて置ける、というようでなくてはならない。

 何かを言葉にするとき、その「何か」は、言葉で言い表しきれるものではない場合がよくある。言葉にした瞬間に姿を表すタイプの概念もあるが、逆に言葉にしてしまったことで解釈の方向を絞ってしまい、あり得た可能性を削ぎ落としてしまうこともある。その感覚は量子力学の「重ね合わせ」と「観測」のイメージに少し似ている。頭の中のイメージをどんな言葉で表すかは、完全なランダムではないにしろ、その瞬間の脳の状態によってある程度左右されていて、書き表わそうとした瞬間の状態でそこに生まれる結果が多少変わるのである。(※私は完全なる文系人間で量子力学の知識はほぼない。)

 しかしながら、イメージを少しでも削ぎ落としてしまうことを恐れて一切言語化を放棄すれば、何も生み出すことはできなくなってしまう。不完全な形であってもまず目の前に置いてみなければそこから次のイメージへと渡っていくことは難しい。言語化に限らず、絵や図やその他のあらゆる表現方法にしてもそれは同じである。頭の中を完璧に再現することは不可能でも、とりあえず何かは出力しなければ先に進めない。

 妥協点としては、「少しは削ぎ落とされるが、なるべく削ぎ落とさない出力」または「特定の方向づけをせず、なるべく元の曖昧なイメージに立ち戻ることができる出力」が可能であれば良いだろう。「感じたそのままを書く」ということと近い。(感じたものを本当にそのまま書くということは、前述した通り恐らく不可能なのだが。)

 具体的には、極端な例を挙げると「これがさ~なんかさ~なんかこうもやっとしてるんだけどさ~」というようなノイズっぽい情報である。これをそのままアウトライナーに書き込むことは、別に誰にも禁じられてはいないがどう見ても相応しくはない。この一文に含まれる情報量は多くないし、如何にも文字の無駄である。活用もしにくい。しかし、これを「未解決」「納得していない」などと書き換えた時、その場にあった気分の情報は失われている気がする。そのことについて、自分はそんなに合理性を追求する頭で思索していたわけではないのに、「未解決」「納得」というカタいワードが自分自身を合理性追求マンっぽく仕立てている感触があるのである。


 ところで、半年以上前にごりゅごさんの記事(Roam Researchでデイリータスクリストを書き上げる流れ – ごりゅご.com)を通して、Tak.さんのデイリーアウトラインの考え方に触れ、「なるほど!」というか、「そうやって良いんだ!」というような気持ちになったのをはっきりと覚えている。(誰にも何も制限されていたわけではないのに。)

箇条書きにするんじゃなくて、まず最初に文章で自由にやることを書き出してみるという方法が、ものすごく自分の性質と相性がいい。

箇条書きで書こうとすると、どうしても「余計なことが書けない」んだけど、文章で自由に書いていいなら思いついたことならなんでも書ける。

 ごりゅごさんがこう表現されていることに心底共感した。「箇条書き」という場のオーラに引きずられてしまうのである。
 そしてTak.さんがnote(piece 11:思いと流れとシェイクとRe:vision|Tak. (Word Piece)|note)でお書きになっている、

図書館に行こうという「思い」は、もっとずっと複雑で曖昧だったはずだ。「思い」は具体的でもないし行動可能でもないしMECEでもない。

とか、

それに返却期限は明後日だから無理に今日行かなくていいとか、ついでにとんかつが食べたいという「思い」は、情報としてけっこう重要ではないだろうか。「タスク=実際に取れる具体的な行動」ではないからといって、切り落としてしまっていいのだろうか。

といったことに膝をばしばしと打った。自分が何かを整理しようとする過程で削ぎ落としてしまっていたそのような「思い」のことが、私はずっと気にかかっていたのである。そうだと気がついてはいなかったが、自分の脳はきっとそれをストレスに感じ続けていた。
 そして「『思い』を流れのまま、リンクも含めて書き留めようと思えば文章になる」と書いていらっしゃる通り、これを表現するには文章にせざるを得ない。もしアウトライナーの「きちんとしている感」に負けてそれらをそのままアウトライナーに書けないならば、アウトライナー以外にそのための場を用意しなければならない。

 逆に言うと、そうやって「アウトライナーの手前」の場を意識的に用意しておけば良かっただけの話でもあるのだが、すんなりそうできない理由がまた別にあったのである。
 次はそのことについて書き記していきたいと思う。


 Transnoについてちょっぴり補足。
 Transnoは、ウェブブラウザで見るとフォントがいわゆる中華フォントで日本人としては気になるのだが、ブラウザのアドオン(Chromeなら例えば「Live editor for CSS, Less & Sass - Magic CSS」という拡張機能)で自分のブラウザ上で表示するCSSに手を加えて好みのフォントにして閲覧することで解消している。


※1 前の記事にも補足しましたが、ここでの「アウトライナー」と「アウトラインプロセッサー」は「箇条書きでテキストを構成するツール」と「文書の見出し行のアウトラインを整理するツール」として別に解釈していたのでこういう書き方をしました。しかしその理解は正しくないものと思われるので、訂正させていただきます。