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2021-03-25

アウトライナーの使い方ド下手問題⑤~事前アウトラインと事後アウトライン~

   今回が一応この連載の最後の内容となります。

 前回までは、いずれも「アウトライナーというツールにどういうスタンスで向き合うべきか」という観点でのド下手要因について考えるものだった(と今気がついた)。
 今回は、アウトライナーをそれなりに活用できている状態で、それでも発生するストレスについてひとつ考えていきたいと思う。

 それは何かといえば、「最終形態が"未完成"のまま問題」である。

 アウトライナーでできることはあまりにも多いのだが、とりあえず「文章を書くために構想を練る」という用途を想定することにする。
 そしてアウトライナーに自分のアイデアを書き出して並べ替えて階層を作って、よし文章が書けた!万々歳!――というところに至ったとして、その時アウトライナーに残っているものはどういう形をしているだろうか。

 文章を書いていると、自分でもよくわからないままにエンジンがグオオオッとピストン運動して文章が文章を生むという状態になることがある。それも割とよくある。文章を書くという行為をすればどこかしらには必ずその瞬間が訪れる気すらする。
 そうなったとき、その過程を逐一「構想メモ」であるアウトライナーに書き込むだろうか? 几帳面な人は書き込んでいくかもしれないが、私は全く書き込まない。よってアウトラインを大幅に無視して且つその結果がアウトラインに反映されないままになる事態が度々発生する。
 それは別に悪いこととは思っていないし、アウトラインのおかげでそういう脱線をどれだけしても本筋に戻ってくることが可能になる、ということにこそ執筆に於けるアウトラインの価値を感じている。(これは本の執筆というより自分にほぼ完全な裁量があるブログなどを想定している。)
 で、悪いことではないのだが、事実として「自分が書き上げたものと、そのために使っていたアウトラインの姿」が大きくかけ離れていることがある。脱線したせいで予定通りに書かずに没になった部分もあるだろう。それを眺めると、私の中に浮かぶのは「残骸」のイメージである。

 さてこの「残骸」をどうするべきか?

 今の私なら「そのまま残骸置き場に大事に保存する」と答えるのだが("残骸"を"大事に保存"というミスマッチな組み合わせは意図したものである)、前までの私はなかなかそう思えなかった。
 途中無視して書いた過程も改めてきちんと残しておきたくなったし、最終的に出来上がった形がアウトラインからもわかるように整えたくなった。没になったメモや構造が変わってしまった箇所もそこに残されているにも関わらず。もちろん、それらも記録としてそこにあってほしい。
 それらを整理することは可能だろうか? そしてそれは必要なことだろうか?

 ここで思ったのは、アウトラインというものは「書き終える前」と「書き終えた後」の二段構えであろう、ということである。
 書き終える前のアウトラインは構想やプロットの役割のものであり、書き終えた後のアウトラインは目次や概要を示すものであると言える。ここでは前者を「事前アウトライン」、後者を「事後アウトライン」と呼ぶことにする。(適切な用語が既に存在しているかもしれないが、ひとまずこの名称で記す。)
 自分で文章を書いた際に私が混乱したのは、この二種類のアウトラインを最終的にひとつのファイルに作り上げようとしたからである。文章を書き終えた後に、事前アウトラインに手を加えて事後アウトラインを拵え、事前アウトラインに残っていた残骸的要素を事後アウトラインのどこかにぶら下げていくという作業をしようとしていたのだ。必然的に、その作業には相当な認知資源(=脳のリソース)を要することになる。もうアウトラインの目的であったアウトプットは済んでいるのに、である。

 なんて無駄な作業だろうか。

 事後アウトラインを作るのが無駄ということではない。それはむしろ必要なことで、著者がその作成を迫られる書籍はやはり全体像が整理されていると感じるし、自分が書きっぱなしにしたものは自分でも何の話だか忘れてしまってごちゃごちゃしてしまう。後のことを考えれば概要の整理は必須である。
 ただし、それは残骸と混ぜなければの話である。残骸が混ざったアウトラインはその瞬間に「整理された感」から大きく遠ざかる感触がある。きちんと事後アウトラインは純粋な事後アウトラインとして作り直す必要があるのだ。残骸を混ぜ込むことは、認知資源を大量消費するくせに、その後の活用可能性を極めて乏しいものにする。

 少し話を戻すが、事後アウトラインとはなんであるかをもう一歩踏み込むと、「読み手に全体像を説明するもの」と言える。
 事後アウトラインを目次として公開するならば読み手は「私の文章を読んでくれる人」であるし、自分のためのまとめとして作るならば読み手は「未来の私」である。いずれにしても、今の私とは異なる存在に向けて「これはこういうものですよ」と教えるためのものである。読み手の存在を想定して、見てわかりやすいようにまとめていくことになる。今の自分だけが解ればいい事前アウトラインとは全く性質が違うものである。

 事前アウトラインと事後アウトラインでは解像度も異なっている。
 事前アウトラインは、最も解像度が高い状態であるべき「人に読ませる文章」を作り上げるためのものであるから、アウトラインにも解像度が高い項目がたくさん存在することになる。基本的に解像度に激しくムラがある状態で形成される。
 一方事後アウトラインは、詳しいことは本体となる「文章」を読んでもらえばよいのであって、そこに大体どんなことが書いてあるのかが判ればいい。網羅的である必要があるが、解像度を上げる必要はあまりない。そして淡々と全体が均質になるように作られたほうがいいだろう。
 そう考えると、明らかにこの二つの同居は非現実的である。どうしてそれらをまとめてしまおうと思ったのかと自分に首を傾げたくなるが、その考えには前回語ったオールインワン幻想が関係していることは間違いない。一箇所に、とにかく一箇所に、という強迫観念は情報を適切に分割するという判断を難しくさせる。

 ところで、アウトラインというものは誰かが書いた文章を理解する上でも大いに役立つ。自分で文章を書いて発表する習慣がない人にとっては、むしろそちらの用途の方がメジャーかもしれない。
 その形式の代表としてひとまず「読書メモ」を想定するが、私の中では読書メモは「広義の事後アウトライン」と呼べそうである。その骨格として本の目次(=著者が作った事後アウトライン)をそのまま使えるだろうし、そうでなくとも既に作られた文章についてあらましを整理することは、対象となる文章にとって事後的なものである。
 読書メモを書いた後に再びその本を読み返すことを前提とするかどうかは、人それぞれ読んだ本それぞれかとは思うが、一応「読みたくなったら読み返せばいい」ものである。つまり、解像度が高い状態のものを全てメモしなくとも、原典にあたれば再び高解像度の文章に触れることができる。よって、読書メモは事前アウトラインのようには解像度を高くする試みが必須にはならない。自分に必要な部分だけやれば良い。
 ただし読書メモはあくまで"広義の"事後アウトラインである。読んでいて着想を得たものを書き込むこともあるだろうし、本の引用からにょきにょきと枝分かれして自分の世界がそこに展開していくこともあるだろう。やがてそれを元にして何かを考え抜いたり文章を執筆したりする気になったら、そこが事前アウトラインの芽になる。

 事前アウトラインと事後アウトラインをもうひとつ別のイメージで描写するならば、事前アウトラインは「未存在の地図」、事後アウトラインは「存在の地図」と言ってもいい。
 「未存在」は今造語したものだが、要は「これから形作られる(かもしれない)世界」という意味である。まだ形作られていないのに地図があるとはどういうことかと言えば、つまり「言語化しきれていない、自分の中だけにある抽象世界」を、月の裏を念写したもののようにぼんやりと、時にはっきりと、断片を繋ぎ合わせるようにして描いていくということである。その世界のイメージは私の頭の中にしかなく、私が捕まえ損ねて、あるいは捕まえるのを億劫がって忘却してしまえば、再び私の元に姿を現すことなく永遠に失われかねない。この世界はどんなものなのですかと誰に尋ねることもできないし、多少のヒントを得ることはできるにしても、基本的に己だけを頼りに世界の像を描き出すほかない。

 一方「存在の地図」というのは、自分の脳の外のどこかに実体があるものについての地図ということである。先程読書メモの話を出したのはここに繋げるためであるが、読書メモにしても自分の文章の目次にしても調べ物の結果のメモも、「既に存在するもの」の情報を整理するものだ。
 それは物事を理解するために脳にとって必要な手続きであり、効果的に構造化することはもちろん十分に大変なことだが、確かめに行く先があるという意味で、「自分が描写していかなければこの世に生まれないし刻一刻と失われる」というなかなかに切羽詰まった状態の処理をしなければならない「未存在の地図」の作成よりは気楽である。「未存在の地図」を描くことは「存在の地図」を描くことより楽しい場合が多いかもしれないが、それは「楽」であることを意味するわけではない。

 「未存在の地図」は、そこで思い描いた風景を自分で文章化して作り出すことで役目を終える。次に必要なのは自分が文章によって生み出した世界を描いた「存在の地図」である。直前まで使っていた「未存在の地図」は描写が不正確で不完全のまま残ることになるが、それはそれで良いのである。


 冒頭の話に戻る。アウトライナーを使ってアウトラインを書けているし、アウトラインによって成したいことも成せているのに、何故かごちゃごちゃとして不快だ、という状態を私は感じていた。(これは主に、以前noteの更新を試みていた時の感触である。)
 それは「役目は終えたが、美しく完成していない」アウトラインが後に残されていたからである。そのアウトラインをどうすべきかがわかっていなかったから、私はそこに手を加えてなんとかきちっとしようとしていた。何しろ、私はで書いたように、アウトライナーというものは洗練されていくのが良いのだと思っていたのだ。

 結論としては、完成していないアウトラインはそれでよいということ、そしてきちっとすべきは新たに目次として作るアウトラインだということである。二つのアウトラインの性質と目的を理解し、きちんと分けて認識することが必要だったのだ。


 次回、まとめとしてもうひとつ記事を投稿して、この連載を閉じることに致します。