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2022-11-30

お仏壇ライフハック~祖母編~

 前回は「お仏壇ライフハック」と称して、毎朝拝む時の心持ちを活用してその日を有意義に過ごす方法を書いた。

 またしても仏壇に関するライフハック(?)の話をしようと思うのだが、今回は私ではなく祖母のライフハック(仮)である。

2022-11-28

お仏壇ライフハック

 仏様に怒られそうなタイトルである。

2022-11-26

自己の未熟さを描写するということ

 自分にこういう至らなさがある、ということを描写して表明することの是非について。

2022-11-18

2022/11/18 ―― Twitterからの垂直移動/紙と筆ペン

 MastodonのインスタンスはFedibirdというところにしているが、今日はTwitterからの大量流入で調子が悪いようだ。こんな時はブログをちゃちゃっと書いていくことにしよう。

 Twitterのような場所があるからブログというのが「よりちゃんとした文章」という位置づけになってしまうのであって、この機会にブログももう少し軽く考えていこうと思っている。

 そういう位置づけというのは自分が勝手に決め込んでいるだけで、誰にも「ブログとは……」などと諭されたことはないのである。


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 Twitterの雲行きの怪しさからユーザーはあちこちに移動し始めているようだが、最も多く選択されているのがMastodonだろうか。私も5年半ぶりだかでアカウントを作ってちょこちょこトゥートしている。

 使用感としてはまあほとんど同じようなもので、字数制限に140字と500字という違いはあるが、日本語の言葉の密度で500字というのは結構な規模になるし、長くてもせいぜい200字くらいで呟いている。基本的には140字を超えたら内容が複雑になり始めていると考えてその辺で切ることにしている。(とか語るほどたくさん発信しているわけではないが。現在120トゥートくらいだ。)


 要はサービスの名前が変わっただけで自分がやっていることはほとんど変わらない、ということだ。まあまだMastodonでは他のアカウントをほとんどフォローしていないし、大量に移動しているとは言っても周囲の人々がそっくり移ったわけではなく(というかほとんど移っていないだろう)、「読む」体験の方はだいぶ違ったものになってはいる。それもそのうちTwitterと変わらなくなるのかもしれない。

 こんな感じでTwitterからMastodonというのはほとんど水平的な移動だろうと思う。同じものを求めて移動する先としてMastodonが選ばれている。InstagramやFacebookは毛色が違いすぎるのだろうし、その他のものは明らかに方向性が違うか知名度が乏しいかで、候補としてはあまり上がってこない。

 大事なのは単に人がたくさんいるかどうかではない。Twitterでの体験が他に代えがたいことから、できるならまた同じものを得たい、という気持ちが働いている。まあTwitterそのものにもTwitterで起こる諸々にも文句は無限に湧いてくるが、それでもTwitterは唯一無二なのである。


 しかし、Twitterが登場してからもう結構な年月が経つ。私達はTwitterに適応し、Twitterは私達に適応し、進化なのか退化なのか分からない変化を双方が経てきた。なんというか、そろそろ考え直しても良いのでは、という気分になってきている。

 水平移動ではなく、前にしろ後ろにしろ、どちらかに垂直移動した方がいいのかもしれない。前に何があるのかはよくわからないが、サービス側もユーザー側も手探りの中でやっていくような、ある種の謙虚さを持った場に環境をリセットしたい気持ちはある。

 あるいは敢えて後退するのもありだろう。典型がブログだろうが、バズることが繋がりを生むのではなく、個人間の共鳴から「一緒にやりましょう」という出会いが発生するような、そういう牧歌的な世界に行きたい思いもある。

 いずれの道にしろ、惰性で漫然と続けるという態度からはいい加減抜け出る必要があるのかもしれない。


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 自分でデジタルノートツールを作ることが既に習慣になっているが、その一方で最近は紙に手で書いて考え事をすることが増えた。

 その契機となったのは、ある時ふと「自分にとってしっくりする紙面のサイズは何か」と思ったことだ。前々から使いやすいとかなんか嫌とか感じてはいたが、きっちり明らかにしたことはなかったので、自分と対話してみたのである。

 そうしたところ、明らかにこれとこれだ、というのがわかった。十年前とかに整理しておけばよかったものを、なんとなく曖昧にしていたために今更はっきりしたのだが、自分の馴染むサイズに納得するとなんだかすごくそのサイズの紙面に手で何かを書きたくなった。


 紙に書く上ではもうひとつ好みが左右する要素がある。筆記具の具合である。

 私はメモ書きにはペンを使わずずっと鉛筆(2BかB)なのだが、鉛筆の「感じ」は良いものの、色が銀色気味なことと材質上どうしても筆跡が光ってしまうのが気になっていた。より黒く、よりマットにするには、何Bかの柔らかい芯である必要があるが、そうすると字を書くのにはいまいちな感じがしてくる。

 はっきり書けるようにとボールペンなどを使うと、強弱のつかなさが個人的にはなんだか微妙で、更に言うと本当に一瞬だけ必要なメモ書きにインクを消費してしまうのはなんとなーく気が進まない。それならば気に入ったペンをここぞという時にだけ使って普段はそうでもないものを、などと思うと、そうでもないものの気に入らなさがストレスになる。貧乏性なのに変に神経質のようだ。


 長らくそのもやもやと共に生きてきたが、つい最近解決案として辿り着いたのが、筆ペンを普段遣いする、ということだ。使っているのはぺんてる筆(天然毛ではないものの穂先はほぼ筆そのもの)の中字と極細。筆だから強弱は当然つくし、墨(あるいは墨風の染料インク)だから色は黒くて光を反射しない。

 しかしそう軽々しく書きまくっているとあっという間にカートリッジを消費してしまうので、私はカートリッジのインクを使わずに普通に筆を使うように墨汁に先を浸して書いている。そんなにはっきりと濃い必要がないならちょっと水を混ぜて薄めたりしており、まあ墨汁のボトル一本使い切るのは相当かかるだろう。メモ書きには使っていなかったものの時々そうやって筆ペンに墨汁をつけて書くということをしていたが、それでも中学だったか高校だったかで買った「ぼくてき」をまだ使っているくらいである。


 例えば「Scrapbox風のツールを作るには」とかいうことを、普通に横書きで、鉛筆を持つような普通の持ち方で、ほぼ普通の速度で筆ペンで書いていく。一応下手の横好きでそれなりに使ってきたから書けているというのもあるだろう。図とかも筆ペンで書く。ぺんてる筆でスケッチする人はたくさんいるし、これで絵を描いても全然おかしくはない。

 鉛筆やボールペンで適当に書いた自分の字に「おっ」と思う可能性は皆無だが、筆ペンだと偶に「あっ今の払い良いぞ!」みたいなことがある。自在にコントロールできるほど上手くないからこそ「おおっ」が発生するのだろうと思うし、美しくは書けないなりに楽しい要素はある。


 パソコンに向かってプログラミングをしながら、傍らには紙と墨汁と筆がある。私にとって自分らしさとはそういうところにあるのだろうと思う。


2022-11-15

2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ

 日付をタイトルにしているが、今日という日は特別な日になりました――的な話ではなく、単に、今日考えたことを無題で書き連ねてみようという試みである。(後日追記:さすがに中身がわからなすぎるのでサブタイトルを添えることにした。)


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Mastodonでの今日のトゥートをベースに文章化)


 Twitterにツイートしようかと思ったがなんとなく気乗りせずにMastodonに書き込むということをした。自分の感覚として、Twitterだと本当に誰の需要も満たしそうにないものはツイートしづらい。今更ながら。

 おそらく過去にツイ廃期間が長くあったせいで、Twitterというのは自分の中で「居る」場所として捉えるものになっており、「ツイートする」イコール「自分がいる(=オンラインである)」という意味合いがあるように感じてしまっている。その感覚が自分の中でものすごく邪魔になっている。

 外界に対して閉ざしたいとか自分に都合の良いものだけ見たいとかいうつもりはないのだが、しかし自分が意識を向けられる範囲は量的に言ってごく僅かであるという認識があり、それを拡張することを求められるとしんどくなってくる。つまり、オンラインなら(今そこにいるなら)対応できるだろうとか、フォローしているなら見ているんだろうとか、そういう。誰かに何か言われたわけでもないが、そう要求したりされたりする様子を目撃したことはあるわけで、開き直りきれないでいる。

 これはしかし、ツイ廃でなければ(=絶えずツイートするとかいうことをしなければ)回避できることであり、「読者の存在を利用した言語化」の魔力に依存しなければいいだけのことではある。Twitterだと捗るからつい居座って書いてしまうのだというようなことはどこかしらで何度か書いたが、そうやって「自分の中身が言葉になっていく気持ちよさ」を欲して言語化をTwitterでやるから葛藤が生じる。要するに欲である。


 自分で自分を制御できていない感じというのはそれだけではない。TwitterにしろMastodonにしろ、言語化した内容そのものを世に放ちたいということもさることながら、空虚な自分を少しでも世界に根付かせたいという願望があってやってしまっており、その願望に対する自己嫌悪によって「つい呟いてしまう」と「つい呟いてしまうことを反省する(良くないことだと考える)」を無限に反復横跳びしている。それはきっと良くない。

 発信者としての側面だけ見ればそういう人間こそTwitterがぴったり、ということになるが、Twitterは単に発信の場ではない。受信の場でもある。自分の中でそのバランスが崩れていることがいつも気になっている。別に他の人がみんなバランスを取ってやっているわけではないにしても。昔から、常々「自分はTwitterには向いていない」と思いながら、しかしずるずると続けている。

 要するに、「気にしい」な性格でいながら一方的に喋っていられる場が必要で、それを求めてSNSを彷徨っても駄目なんだろう。そう考えると、つまるところ自分には「ブログしかない」のだと思う。じゃあ大人しくブログで書いてればいいじゃないかという話だが……点、点、点。


 Twitterとブログは何が違うか。どちらも人が読むことを前提にして文を書いていくという点では同じだ。しかし思考のタイムラインを作っていくことと記事を書くことは根本的に違う営為のようにも思う。なぜなら前者は自己の内面の描写、後者は他に向けた表現だからだ。

 そう思ったところで気づいたが、(例えばScrapboxの使い方としては失敗談として目にしがちな)「日付をタイトルにしたページ」というのはブログにこそ必要なのかもしれない。(そう思って、今この記事が作られている。)


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 Tak.さんのアウトライナーライフ(noteの有料マガジン)の記事を読んでいると(あるいはTak.さんの著作を拝読していると)、なんだか「シンプルにこれを真似たら結局全部うまくいくのでは?」という気分になってくる。読んでいてとても楽しい。実例があるとメソッドが実際的であることを感じるし、事実、Tak.さんはそうして日々をスムーズに送っていらっしゃるのだから、机上の空論ではないことは絶対確かなことである。想定は細やかで、スーパーマンがスーパーなところでしれっと補っているというようなところもない。

 一方自分自身の問題として、誰かの方法を「そのまま真似したい(そうしたら万事がうまくいきそう)」と感じる時というのは、自分固有の癖を忘れている時でもあるという実感がある。もし自分自身のことを仔細に思い出せているならば、そのまま乗り換えるのではなく、それを取り入れた自分仕様の何かを具体的に考えるはずである。

 そもそもTak.さんが「自分のやり方をそのままやってみてほしい、全部うまくいくから!」とお考えになっているはずもなく、むしろおそらくは全く逆で、人のやり方をそのままコピーしてしまわずに自分自身との対話でやり方を考えていく、その工程自体の例を示してくださっているのだと思う。なれば、こうしたら良さそうという気持ちを持ちながら、どうして「良さそう」なのか、どうしたらその「良さそう」を自分が殺さずに済むのかを、じっくり考える必要がある。

 やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。


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 ところで、このようにごちゃごちゃ詰めたような発信というのは前にScrapboxでも試したが、その時はまあ、さっぱり続かなかった。読み手の存在を考え、読み手にとっての無益さを意識しすぎたのだと思う。実際に無益で、変に自分の印象を和らげようとしたところもあったのか、他ならぬ自分自身にとってすら無益なものになっていた。何か自分にとって必要を感じたからやったはずだが、自分でそこから外れてしまったようだ。

2022-11-02

アウトライナー×つぶやき×平面配置②~ツール紹介編~

 メモを雑に書いたままゾンビ化させないために、「つぶやくように書けて、アウトライナーのように操作できて、平面配置で表示されて、自然にもう一人の自分と対話できるツール」を作ろうという話のツール紹介編。ここに至る経緯は前回の記事をご参照のこと。

アウトライナー×つぶやき×平面配置①~経緯編~