自分にこういう至らなさがある、ということを描写して表明することの是非について。
きっかけはこちらのツイート。
正当化と承認の差異。
— 倉下 忠憲 (@rashita2) November 26, 2022
きっかけではあるが、言葉の意図は存じ上げないし、今から書くのはただ「正当化」「承認」の二つの言葉から勝手に連想したものである。
正当化と承認がそれぞれ何かと考えると、「自分の言動が(本当は道理にかなっていないのに)道理にかなっているのだと見なすこと」「自分の存在をよしとして認め許されること」だろうか。ここではそれを求める行為を考えようと思うので、それぞれ「正しさを認められようとすること」と「存在を受け入れられようとすること」と言い換えようと思う。
さて、「~ようとすること」二つを成すためにすることは何か。直接会うならお酒を飲みながら意見交換、ということになるかもしれないし、インターネットなら何かしらの文章を発信することになるだろうかと思う。
いずれにしても、能動的に「求める」ということをするならば、自分はこういう状況でこういうことを思っているのだ、ということを相手に伝えることになるのではないかと思う。特にインターネットでは、物理的に存在が目の前にないので、自分という存在がどうであるかは自分で伝えるしかない。(敢えて「求める」ということをしないのならば、日頃の言動で周りは各々勝手に人となりを判断するであろう。)
この時、自分の環境が苦難に満ちていて、自分を苦しめる理不尽な存在がいる、自分はそれと戦っているのだ、というような話をするのならば話は割と簡単に思える。素朴に頑張ってほしいと思う人は多いだろうし、承認も得られるだろう。ひとりじゃないのだというメッセージを送ろうという人はたくさんいるはずだ。
ただここで、反対側の意見を聞いたら全然話が違っていたとかいうことになると厄介なことになる。戦っていると言っていた相手は全然理不尽などではなく、むしろ発信者が曲解して暴れていただけだったのだとなれば、それは「正当化」でしかなかったのだと見なされるだろう。
いずれにしろ、ここでジャッジされているのは「事実関係」であろう。事実がどうであるかを元にして、「理不尽と戦っているAさん」という存在を承認するのか、「勝手に人を理不尽扱いするAさん」の自己正当化を非難するのか、ということになる。
Aさん自身は「正しさを認められること」と「存在を認められること」のどちらを求めていたのだろうか。「(結果として)正当化になっている(と周りは感じる)」とは言えるが、周りには心情を判断する術はないのかもしれない。
ところで、私自身を含めて自分語りをしたがる人間というのは、自分という事実および自分が感じている真実を描写しようと試みる。私にはこういうことが起き、私というのはこういう人間なのである、ということを語り続けるわけである。
もし自分という人間に欠点があれば――無いわけがないのだが――それも含めて「私はこうなんです」と語るだろう。この欠点というのが、他人にとって迷惑な要素である時、話はなんだかややこしいことになってくる気がする。
早い話が、「わかってるなら直せよ」「開き直ってんじゃねえ」と言われるのがオチである。「自分はこうなんです」と描写すると、なぜそのままでいるのかを責められることになるのである。つまり、描写したというだけで、「これでいいと思っている」などとは言わずとも、そういう自分を良しとしていると見なされる可能性がある。描写しようがしまいが自分というのはここに存在している通りの人間なわけだが、「わざわざ描写する」ということが、単に描写する以上の意味合いを持ってしまうような気がするのである。
現実的には黙っているのが正解なのだろう。でも誰も自身の欠点を表現しなければ、何かの欠点を持つことがその人を孤独に至らしめるおそれはある。個人的には、自分自身のままならなさと戦ってのたうち回っている人を見ると少し安心する。私自身がのたうち回っているからである。
そういえば、少し脱線するが、自分と同世代を見ると私自身を含めてどうにも露悪癖が多いような気がしている。常にこの年頃というのはそういうものなのか、あるいは、今のこの世代が、これまでもこれからもそうなのか、それはわからない。いや、もしかしたら全く気のせいかもしれないし、そうに違いないとはちょっと言えないのだが、体感としてはそんな感じがする。
自分が如何に駄目かを表現するのは割と当たり前に行われており、それも別に共感や同情を誘っているとかではなく(そういう人はそういう人で世代を問わず常にいるが)、ただ表現するために表現している。健康診断結果の悪さ自慢と似たようなものだろうか、と少し考えたが、なんとなくそれとは違うと感じる。違いの言語化はまだできていない。
あとは言葉づかいが全体的に自虐風である。内容的に本当に自虐的なことを言えば嫌われるというのは共通認識になっているからか、自虐や卑下でコミュニケーションを取ろうとするのはそれほど多くはない気がするが、自分のことを表現する時に単語選択が自嘲的になる傾向はそこそこ強いように感じている。私自身自嘲的な表現を割に多用しており、それが自嘲的な演出であるということが他の世代に通じなくて面食らうことが何度かあった。それは私の想像が及ばず気が利いていなかったのだと思う。
そういえば中島敦の『山月記』を同世代のTwitter民はみんな大好きという感じだが、これは他の世代も同じなのだろうか?(もちろん、そもそもTwitter民というのが母集団として偏っている、ということは大いにある。)
また、私が若かりし頃は「嫌われ役」というものがまだ結構流行っていたように思う。ダークヒーロー的なものはいつでも人気だろうとは思うが、私の思春期頃は何が震源地なのか「敢えて嫌われて部を引き締める」という在り方を度々耳にした。
なお私の部活ではそういうポジションがもう係として予め存在していた。引退する先輩から次の担当が任命されて、誰しもやりたくはないが任命された以上は「仕事」として働き、部員がだらしなくなってくるとズバッと言う。主将がその役目をやってしまうと負担が大きすぎるということから明示的に係にしたという経緯だったかと思うが、みんな「そういう係になっちゃったもんな」という認識で見ていたので、別にその立ち位置の人そのものが嫌われるということもなかった。「規律係」とかではなく「苦言係」的なコンセプトにしたことも含めて、それはうまいシステムだったと思う。
今でもそういう「嫌われ役」的な概念はあるのだろうか。普通に暮らしている中ではとんと聞かなくなった。そういう上司がいる会社はちらほらあるかもしれないが、下の世代ではもうすっかり廃れただろうか。
そんな感じで、あくまで私の主観に過ぎないことではあるが、どうも「敢えて自分を腐して語る」ということが多い世代なのではないかと思っている。冗談交じりにしろある程度本気にしろ、そして強気にしろ弱気にしろ、自分を駄目な存在、不快な存在と仮定して話をスタートする、みたいなことがやや目立つ。おそらく多くの場合、実際に誰かにそういう存在だと突きつけられる前から、社会の基準に照らして自分の位置づけをそうしてしまうのである。「社会不適合者」とかはもう枕詞のようである。
そういうスタンスを取らない人からするとこの態度は奇妙なのではないかと想像するが、一体どのように映っているのだろう。
閑話休題。「正しさを認められようとすること」と「存在を受け入れられようとすること」の話に戻るが、もうひとつ難しいパターンがある。
自分の信念に従って何かしたとして、それが他の誰かの迷惑になったとする。この時、自分の信念はこうだと説明したら、おそらく「正当化」だと見なされるだろう。そんなことは求められていないからだ。謝罪の弁にそういうことを混ぜるせいで炎上するパターンは枚挙に遑がないが、「自己を描写する」というのは相当な悪手ということになるようだ。「だから私は正しい」とかいう開き直りはしていなくとも、自分の話をした時点でアウトである。
それが正当化のように聞こえるということは同意するのだが、その自分の感覚も含めて、少し不思議なことではある。やったことは「自分を描写する」ということに過ぎないのに、そこに当たり前に「それは正当化だ」という価値判断が加わる。つまり「自分を描写する」ということ自体が一切認められていない。
「AだからBをした」という説明は、「AだからBをした」という理屈を示すことによって、「これには理由がある」という主張になってしまうのだろう。そもそも何かしらの理由があるのは当たり前であって説明しようがしまいが事実は変わらないが、それを説明した瞬間に「だから仕方ないことだろう」と言っているかのように受け取られがちである。実際そう思っているかもしれないし、別にそう思ってはいないかもしれない。しかし聞き手には、正当化の意思があるかどうかは全くもって関係ないものとして解釈される。
親しい友達や良好な関係の家族なら別だが、赤の他人には、そんなことはどうでもいいのだ。
そう、友達や家族は別で、赤の他人だから酌量の余地がない。
知り合いや会社の関係者というような距離感の時、話をしていて「こいつ自分の行いを正当化しているな」と感じる場合があろうかと思う。しかし親しい友人が如何にも駄目っぽいことを言っていた時、同じように感じるだろうか。多分そうはならないと思う。内心に相手に対する敵意がある時、相手の「自分を描写する」という行為を許し難くなる。そしてそれを許さない時に、「それは正当化だ」と判定するのではないか。
インターネット上の知り合いというのはその点距離感が極めて微妙である。親しくなることも稀にあるが、「同じものが好き」という程度の付き合いだと何かのきっかけでたちまち関係が悪化することがある。嫌なところを知らないうちは会心の友かとばかりに飽かずやり取りしているのに、ちょっと「えっ」と思うと一気に「なんだあいつ」レベルにまで評価が下がる。そしてほとんどの場合、評価が回復することはない。友達同士の仲違いとはまるで質が違う距離感である。つまり基本的に、相手の弁を「正当化」と見なすパターンの間柄にあるように感じる。またそうやって一瞬で評価が変わるということは、相手の存在そのものを承認していたわけではないのだろう。「正当化」の三文字は、相手を承認していないしるしとして自分の中に生まれるのかもしれない。
インターネットが人間関係上重要な場となっている時、この距離感の微妙さはかなりネックになると感じる。一方的に誰かに承認を期待しても、相手には全くそんな気はないこともある。実は裏では名指しでボロクソに批判している場合もあろう。現実の「知り合い」「友人グループ(仮)」もその危険性は同じだが、インターネットは文字のやり取りゆえ「自分を描写する」ということが多く発生するし、「あいつ自分を正しいと思っているぞ」という、人間性の評価がガクッと下がる機会が生まれやすいように思う。
結局は「それでも存在を受け入れてくれる人」を地道に見つけるほかはないのだろう、というつまらない結論に至ってしまうが、「このくらい駄目な自分」を開示するタイミングがどうあるべきかというのは難しい。駄目な自分を隠していいところだけ見せても、実際駄目ならそのうちバレる。後から「なんだ、そういうやつだったのか」となったら承認は取り消しになるかもしれない。そうなると最初から開示していたほうがまだマシに思えるが、そうするとそもそも「なんか面倒くさそう」と距離を置かれるかもしれない…。
尻切れトンボの感はあるが、なんだか急激に生きるのが面倒くさくなってきたところで、この記事は終わりにしようと思う。