ここまで五回にわたり「私はアウトライナーの使い方が下手くそだった」という話をしてきた。アウトライナーについて話したいことはまだ尽きないが、「アウトライナーの使い方ド下手問題」というテーマとしてはここでひとつの区切りとしたいと思う。
今回は各記事の簡単な振り返りと、今私がアウトライナーに対して持っている認識の整理をしていきたい。
はじめに
まずこの連載はなんであるかというと、アウトライナーというものがとても素晴らしいツールであると解っていながら「使い続ける」ということができなかった私の自己分析の記録である。
この連載を通して目指したのは、「どうして私はアウトライナーとともに情報管理の『系』を作り上げていくことができなかったのか?」という問いに答えを出すことだった。
「系」という語については、典型的文系人間ゆえにふわっとした理解で使ってしまっているが、要するに「生態系」のように或る観点で見た「仕組みの全体」というイメージである。
①「きちんとしている感」との格闘
アウトライナーを使おうとしたときにまず感じるのは「見た目がきちんとしている」という点である。
まっさらなページを一度クリックするとそこにバレットがひとつ打たれ、さあ新たな旅路の第一歩を踏み出そうではないか、美しい景色が君を待っているぞ、と言わんばかりである(私にはそう見えた)。
さて、そこに私は先の丸い鉛筆でぐしゃぐしゃと適当なことを書けるだろうか。
また、「箇条書き」という形式にも引力がある(記事内ではこちらに先に触れた)。
一言で言うと「その要素を、そこに置く」という意識なのだが、これは「そこに置く」ということに納得できる限りガンガン書き進むエネルギーを生んでくれる一方で、「そこに置く」に納得できない時にはその場違い感がなんとも不快な気分をもたらしていた。
アウトライナーが纏っている雰囲気に「なんのその」と立ち向かえないとしたら、私はどうしたら良いのだろうか?
②アウトライナーは「今」のものである
いざアウトライナーに情報や思考を書き込んでいくと、そこに蓄積されていく言葉の山が自分にとって(あるいはアウトライナーという形態にとって)望ましくない形になることがある。
思索のためにアウトライナーを使う上で、望ましくないと感じる状態のひとつは、項目が自由に動かせないということである。
その項目を書き込んでから月日が経ってしまったために、その項目の意味や動機を失ってしまった。あるいは、その項目に「どういう意味か」をくっつけ過ぎて、別の場所に移し替えて活用することがしにくい。そのように、その項目の文脈を忘却したり、逆にその項目が文脈に縛られてしまったりすると、その項目の動きは鈍くならざるを得ない。
アウトライナーは項目の上下を入れ替えたり、項目間に階層関係を作り出すことで情報や思考を整理・発展させるツールである(他の用途もあり得るが、メインの機能はそれであろう)。それゆえ、項目は常に自由に動かせるように身軽な状態に保たれている方が良い。
項目が文脈を失っても動かない、文脈がまとわりついていても動かない。ならばこの項目はどうしたら自由を得られるのだろうか?
③「自分」はもはや「宇宙」である
湧いたアイデアやメモを書きやすいからと、アウトライナーに思いつくままにすいすい書いていくと、うまく整理されない項目がごちゃごちゃと溜まることがしばしばある。
そのひとつの要因としては、「最近体験したこと」「最近思いついたこと」が「新たに思いついたものを書く場所」に溜まり続けて、つまり机の上が物で溢れるということがある。最近の体験や思考のメモは、しばらく目に入るところに置いて思い返したり更新したりしたくなりがちだからだ。
更にその状態が解消しにくい原因として、そもそもアウトライナーに書き込もうとしている思索対象の範囲が広すぎる場合がありうる。例えば極端に言うと「私の性格」「私の生活」みたいな広さのものである。
そのように漠然と広い範囲について情報や思考を書き留めていくとなると、溜まっていく項目の種類も必然的に雑多なものになる。思考については抽象的にもなりやすく、規模が拡大するにつれてどこに何を書いたかを把握していられなくなる可能性が高い。抽象的な思考はどうしても検索で探し出すことが難しくなる。
対象が漠然と広いということは、そうやって無秩序に増殖しやすいだけでなく、そのアウトラインがゴールを持たない、つまりけりがつくことなく果てしなく拡張し続けることも意味する。こうして私のアウトライナーは、情報をうまく活用することができないままただ溜まる一方になっていく、ということを何度も繰り返した。
アウトラインには適切な範囲で扱う意識が必要に思えるが、そのためには何を踏まえればよいだろうか?
④オールインワンという幻想
アウトライナーにごちゃごちゃと無秩序に情報が溜まってしまうことには――つまりゴミ屋敷化することには――もっと根本的な問題があり得る。
私は情報管理について個人的に抱えていた悩みから、以前から全ての情報をただひとつのツールで管理することを目指していた。その試みの先にあったのは、「どこに行ったかわからないから一箇所にまとめようとして、しかしどこに行ったかわからない」という事態である。
「アウトライナーには不可能なこと」は今のところ思いつかないが、それでも「アウトライナーが最善とは言い難いこと」ならやはり存在するだろう。全く種類が異なる役割を持たせることによって今やりたい作業に素早く移れない、という弊害も生じ得る。そのことに気づいた時点で他のツールと役割分担すれば良かったのだが、私はすんなりそうすることができなかった。
さて、最初の問いをもう一度繰り返してみよう。
どうして私は、アウトライナーとともに情報管理の「系」を作り上げていくことができなかったのか?
⑤事前アウトラインと事後アウトライン
アウトライナーとの向き合い方に整理がついたとして、それでもまだ困ったことが発生するかもしれない。
私が困ったのは、アウトラインを活用して無事に文章を書き終えた後、そこに残った不格好なアウトラインの残骸の取り扱いである。
アウトラインには、「文章ができあがるまで」と「文章ができあがった後」の二種類があると言えそうだ。後者の典型例が本の目次である。そして前者がその「残骸」だが、これはどうしたらよいだろうか。私は残骸に手を加えて、見返した時に価値ある何かを作っておこうと試みていたが、その手間にはあまり意味がなかったと言わざるを得ない。
なぜ残骸に無意味に手を加えようとしてしまったかと言えば、それは「文章ができあがるまで」のアウトラインと「文章ができあがった後」のアウトラインの区別がはっきりついていなかったからである。
それではこの両者は具体的に何が違っていて、それぞれどう扱うのが適切なのだろうか?
私が思う「アウトライナー」像
アウトライナーをうまく使えない、ということについて考えてみて解ったのは、私の私自身に対する認識の不足である。私に何ができて何ができないのか、私は何がしたくて何を必要としているのか、私は何から影響を受けて何を好きなのか、それを私は掴みきれていなかった。
①で判明したのは、私が「形式」から強く影響を受けることだ。アウトライナーは私に何も要求していないが、私は自分の思いを削ぎ落としてでもアウトライナーらしさを遵守しようとした。
②で判明したのは、私は情報に伴っていた文脈をいつまでも覚えておくことはできないということ、そして逐一文脈を記録する努力は継続できないということだ。時を超えてアウトライナーの内容を自由に活用することは、そもそも私には無理難題だった。
③で判明したのは、私には目的意識が希薄であるということだ。逆に、私の中にはゴールの存在しない思考が渦巻いている。私の考え事というものが、放っておくと無限で果てしないものになってしまうということの意味を、私は解っていなかった。
④で判明したのは、私は情報を管理するということに伴う強迫観念から未だ解放されていなかったということだ。一箇所で全てを管理することが理想だと信じていた。ツールが本領発揮できない使用法でも、オールインワンを貫くためにはそれも仕方ないと割り切ろうとした。そしてそれは継続できなかった。
⑤で判明したのは、私は済んだものについて「この過程で生じた全て」が保存されないことを不安に思っているということだ。そこには具体的な目的はない。ただ、流れが記録の上から失われてしまうことが漠然と心配だった。済んだことに囚われれば、当然前に進むエネルギーは奪われる。
アウトライナーはとても自由なツールだ。順番を入れ替える、そして階層を作る、というのは人間の思考の基本であると思うし、原則としてその二つの操作だけを行うものであることが、アウトライナーを使う人間の性質を露見させているように思う。果たして「完璧な使い方」というものが存在するのか私にはわからないが、アウトライナーを使っていてどうにもうまくいかない部分には、その人の思考の流れを妨げる癖が潜んでいる気がする。
アウトライナーとの間に生じた問題は、アウトライナーを主語にして考えても解決できないのかもしれない。
今の私には、アウトライナーは自分をそのまま映す鏡に見える。
この連載についてのアウトライン(⑤で語った事後アウトライン)をScrapboxに作ってみた。
Lab|アウトライナーの使い方ド下手問題 - のらてつ研究所
主に自分用の俯瞰図だが、見ていただくと少しわかりやすいかもしれない。
最後に。
ただただ自分自身のままならなさを綴った文章でしたが、色んな方に読んでいただきご縁も生まれたことを、ひたすら有り難く思っています。ツイートのRTで広めていただいたり、コメントをお寄せいただいたり、ポッドキャストで取り上げていただいたり(うちあわせCast第六十三回)、いずれも予想していなかったことで驚くばかりです。
お読みくださった皆様、ありがとうございました。