あらすじ
- 以前noteの記事にて、構造ノートの意義を「自分の問題意識に基づいて複数のノートを構造化し、文脈を与えるために存在しています。」と表した。
- その表現に対し、自分で不満を感じたので言い直したいと思った。
- 前回は「構造化」の三文字について考えた。
- 構造化は自動的機械的にはできない。
- うまくいった構造の型も使い回せるとは限らない。
- 事例の特殊性に気づくためには自己観察と言語化の努力が必要である。
今回考えたいのは、「文脈を与える」という表現で言い表したかった意味合いについてである。
これは「構造化」から自分なりに更に一歩踏み込んだ表現であって、現時点でも「つまるところ文脈なんだよな」と思うのだが、「つまるところ」と言いたくなるときには大方抽象的過ぎるものである。イメージするには良いのだが、具体的に何をするのかは「つまるところ」だけでははっきりしない。
「文脈」という言葉にあくまで「文章」のイメージが強いようであれば「コンテクスト」と読み替えてもらえればいいが、要は「脈絡」「筋道」「前後関係」「背景」「論理的・意味的関係」といったことである。接続詞と接続助詞で繋がっていくその繋がりとも言えるだろう。単語だけ、フレーズだけ、単独の文だけでは表現できない意味合いということだ。
文脈を「与える」と言いたくなったからには、そこには「放っておくと文脈は生まれない」という前提がある。「放っておく」とはつまり、情報を集めない、またはただ列挙するという状態に留まっていることを意味している。並べただけでは文脈は生まれないのである。
いや、もっと正確に表現しよう。並べられたものを見て、頭の中にはほとんど反射的に何かしらの文脈が生まれる。しかしそれをきちんと書き表さなければ、その文脈が情報として意味を持てないのだ。そこに見出した意味を活用するには、情報の列挙を見る度にいちいち同じ連想をしなければならないことになる。それは不確実で非効率である。
文脈というのは、構成要素を見れば毎度必ず同じように捉えられるものではない。条件や他の構成要素が増減すれば変わってしまうし、情報の並び順だけでも認識は変化する。生じたその時に姿を留める処理をしなければ、移ろって失われてゆく。ここにこういう文脈が確かにあった、ということを保存するのが「構造ノート」だと私は認識している。
よって、構造ノートは「ページリンクの列挙」だけではその役目を十分に果たせない。構造とはリストではない。(リストは構造の一部ではある。)
さて、「文脈を与える」ためには具体的にどうしたらいいのか。前回は「構造化」を考えるにあたって「言語化して明示する」を繰り返したが、まさにその作業はなんであるかということを考えなくてはならない。
このことについては数多の言説があるし、客観的に見れば敢えてここで私が考える必要があることではないかもしれないが、私には私の言葉が必要なので、私なりに考えて書いていくことにする。
前回同様、自分が実際に行う行動を整理してみよう。
- 前提を整理する
- 前提とは:主題に対して影響を与え得る、環境や気分、事の経緯などの状態
- 情報を操作する
- 操作とは:主に分類・ソート・階層化
- 操作それぞれの根拠を言葉にする
- 根拠とは:関連知識・連想・気持ちなど
例えば、「構造ノートとはなんぞや」というテーマには「noteにはこう書いた」「構造化に失敗しがちで困っている」などの前提があり、テーマについて生じたアイデア・情報群に対して「構造化と文脈の付与の二つに分別しよう」「経緯→手順の可視化→現状→検証→結論の順で並べよう」といった操作を加えていく。そしてそれらについて「言葉が表している範囲が違う気がするから」「この順で考えるのが自然だから」というふうに根拠を言葉にする。自明な気がするとしてもきちんと言葉を思い浮かべることが肝腎だが、明らかに「見ればわかる」ものは書き留めるまでしなくともよいだろう。
そうしていくと、紙面または画面上に並んでいる情報の構造がどういう流れに於いてどういう理由によって形成されたかがわかる形になる。わかる形になるとは、未来の自分が読んでも文脈を再現できるということである。
文脈は「何を感じたか」「何を思ったか」の世界であり、それを認識の都度、逐一言葉にするのは容易でない。もちろん全ての情報に対して文脈を捉えて書き残すことは到底できない。しかし他ならぬ私が、他ならぬ私のために情報を集めて用いるのならば、それは容易でなくとも取り組まなくてはならないことであろう。それこそが他ならぬ私として生きることそのものであるとも感じている。
そして「これについてはきちんと取り組まねばならない」という意識を持つためのものとして、構造ノートという場が私のObsidianに存在しているのである。