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2021-12-23

ブログ日誌:大事なのは内圧を弱めないこと

 前回の記事以降、ブログを書く以外のことに意識が向いていて少し間が空いてしまった。

 他のこととは、CSSを書いたりJavaScriptの勉強を始めたりGitで古いファイルの分岐の混乱を解消したりDynalistやScrapboxに情報を整理したりといったことで、それはそれで日々進歩があって気分は充実しているのだが、とはいえ「投稿する」ということをしないでいると私としては人生の蓄積を感じられない。やはり人に読んでもらうに足る文章を生産する努力を継続することが自分にとって必須なのだろう。

 

 テンポ良く続いていた投稿が途絶えたのには、他にも考えられる理由がいくつかある。

 ひとつは、テンポ良くいきすぎていて息苦しくなったということがあり得る。ガンガン書いている時、なんとなく自分の重心が高いところにあるような感触がある。呼吸も胸の高い位置で浅くなっているかのようである。自分の思念を他人が読める形に文章化するというのは、腹に溜まっていたものを口から吐いていくようなイメージがある。下から上へ、時に心地よい深呼吸のように、時に苦痛を伴う吐逆のように、体内の諸器官をくねらせてどうにか吐き出していく。上手くいっていたとしても、やがて上半身が疲れて休みたくなる。やりすぎる前に時折自分を落ち着かせていれば少しは長持ちするであろうと想像するが、落ち着いていないからこそガンガン書けるということもあり、そのバランスを取るのは難しい。そしていよいよ疲れた時に一気に脱力してしまうのである。

 他には、「渾身の」とまでは言わないにしても、自分の中でスッキリするような文章を書けてしまうと内圧が弱まって次の文章を書きにくくなるということがある。今回は典型的にそのパターンだったが、前回の記事(思った通りに書くということ)でそれまで自分が言語化しないまま抱えていた考えをスッキリ言語化してしまったために自分の中の圧力がゼロになってしまったような感覚がある。これは他に書くことがあるかどうかとは関係なく起こることのように思われる。もし「思った通りに書くということ」に直接関連して更に書くべきものがあったならば続けられたであろうと思うが、それ以外の種類のネタをどれだけ抱えていても、ひとつのテーマについて決着がついてしまった時の圧力の低下は抑えがたく感じる。例えば小説を書く場合も、ひとつの世界観について書き終えてしまうとなかなか次に移れない。文章にしていくための断片は山程あるのに、それを繋いでいく作業のための気力がないのである。

 少し前まではネタそのものがなくて困っていたのだが、ブログの書き方ド下手問題を通して「ネタがない!」という悩みはなくなり、価値の如何はともかくとしてとりあえず書こうと思いさえすれば書けるネタがそれなりにある。それらのネタはどうすれば私なりの文章になるのかも解った。その段階に来てみて、「ネタはあるし書き方も知っているが書けない」という悩みに今直面している。

 原因が疲労であれ内圧の低下であれ、ギアを5速に入れてビュンビュン走っている時は一瞬で書けてしまうような文量も、一度停止して1速から入れ直さなければならないとなると果てしないかのような時間をかける羽目になる。せめて2速くらいまでの減速に留めて、停まりきらないで気力を維持・回復していきたいところだ。

 

 これらの状態の根本原因としては、「今」に注力しすぎて次に移る準備ができていないということが言えそうである。今書いているものに意識を100%割いてしまうために、それが完了したときに次のことをすっかり一から考え直さなければならなくなる。予め十分に材料を用意していたとしても、それを組み立てる力が枯渇していれば文章にはならない。気力の用意がないのである。

 とはいえ、今書いているものに対して30%とか50%の意識を割くだけで良い文章ができるとも思えない。良し悪し以前に完成させること自体が難しいようにも思う。限りなく100%の意識でもって取り組む必要がある。いくらでも同時に進められる器用な人も世の中にはいるかもしれないが、とりあえず私はそうではない。

 自己のコントロールとしてとても難しいことを試みることになるが、理想としては90%くらいで今今のものに取り組み、残りの10%で次の準備をしておくことだろうと思う。毎日注力するものを変えるのも手だが、そうするにしても次の日の90%のために今日の10%を割いて用意しておく必要を感じる。

 おそらく急には難しい。自分を信用できていないために、自分の90%がその日のワークとして十分だと感じられない。気持ちとしては120%や200%やりたいなどと思ってしまっているのである。ゆえに100%でも妥協しているかのような気分なのだ。実際には定義上100%より大きい値は存在しないので100%で最大なのだが、往生際の悪いことに自分の100%が自分にとってまだ不十分で不満なものになっている。そうやって無理をした結果0%の期間が生じているのは本末顛倒甚だしいが、長い目で見て勘定するには毎日の我慢に少し勇気が要る。その勇気を得るためには、今まさにしているように、現実を淡々と描写していくことがその一助となるような気はしている。

 

 100%とか90%とかいうのはイメージの話だが、具体的には何をするべきだろうか。

 ずっと何かを書き続けている人生でありたいとすれば、常に「アクティブな途中段階」を抱えている必要があるだろう。いくつかを並行してやっていてもそれが同時に完成してしまうと内圧は急速に弱まってしまうだろうし、一方で単に材料の揃った書きかけを溜めておけば良いのではなく、それらは自分にとって熱意を維持できるホットなテーマでなくてはならない。

 つまり、

  1. 進行度が異なる題材を複数持っておくこと
  2. それらに対して熱意を維持しておくこと

 の少なくとも二点が必要であろう。

 進行度とは、大雑把に言って「断片を思いついた」「材料を集めているところ」「アウトラインを作った」「文章化に着手している」「書き終わった」といった段階のことを指している。

 「断片を思いつく」ということは、半ば自動的に、黙っていても手に負えないくらいに発生することなので敢えて意識することはないが、そこにベクトルを持たせて関連する材料を集めたり作ったりすることには自分の意志が必要である。構想してアウトラインを作るのには更に積極的な検討が要請される(Tak.氏の『書くためのアウトライン・プロセッシング: アウトライナーで発想を文章にする技術』が大変参考になる)。文章化の工程は言わずもがなのことだ。

 「進行度」と書いたが、題材によって材料集めと構想と文章化の各段階の難易度は変わるだろうし、実質の進行度は割合で管理できるものではない。材料集めが終わったということが進行度五割を意味していることもあれば、進行度一割でしかない場合もある。構想が終わった状態を進行度八割と思っていたら実際には三割程度に過ぎなかったのだ、と文章化に苦闘し始めてやっと判ることもある。

 よって、何割のものを何個用意しよう、というような意識を持つのはあまり得策ではないように思われる。各段階それぞれに何個かある状態を維持しておくというくらいの気持ちでいた方が良いだろう。

 

 ところで、書くということに於いて大事なのは書いていない時間である。ということを常々自分への戒めとして唱えているのだが、なかなか難しい。文章を書くことを含め「表現」というのは、工程のどの段階にあっても「着想を得る」という偶然に依存するところがあるため、常時着想を得られる土壌を用意しておかなくてはならない。潜在意識の力を借りるのである。予め「ブログを書くにはどうしたらいいだろうか」と自分に問うていればこそ、パンを齧りながらはたと「必ず結論を示そうとするのが間違っているのだ」と思い至ることにもなる。

 潜在意識が仕事をしてくれるためには、前もって自分の脳に「このことについて考えておいてほしいんですよ」と頼む必要がある。そして自分の脳がうきうきと「承知つかまつった!」と応えてくれるのは、そのテーマに対して熱意がある時だけだと感じている。

 熱意というのは既に生じている熱意によって生まれるところが大きく、熱意があるから熱意が増し、熱意がないから熱意が湧かないということになる。一度鎮火してしまうと再燃させるのは容易でない。自分という人間の根幹に直接関わっているようなテーマであればしばらく放置していても熱意を取り戻すことが可能かもしれないが、大半は発想を膨らませていくことそのものを求めて書くのであり、その場合は意識を少しでも向け続けていないとあっという間に熱を失ってしまう。

 また、意識を向けると言っても「今途中のものリスト」をただ眺めればよいというものではない。存在を確認するだけで熱意を思い出すのは、存在を確認すると同時に僅かでも想像を膨らませているからではないかと思う。無意識に想像を膨らますことができるものはそれで良いだろうし、そうならないものはちょっと立ち止まって意識的に想像する必要があるだろう。

 

 最初の話に戻るが、日々の気力の90%を「今」に費やし、10%を「次」のために充てたい。今回は100%を「今」に使ってしまわないという趣旨なので「今」に費やす90%の中身については置いておいて、確保した10%によってどう「次」を準備するかが肝心である。

 今集中して取り組んでいる文章の他に、三つか四つくらいはすぐ着手できるネタとして備えておきたい。まだ記事にできそうなものがなければ、ただ思いついただけのメモやツイートなどを見返して想像を膨らませることを試み、書けそうなネタを用意する。

 既に見込みのあるネタが三つ四つあるなら、それらのページを巡回し、なるべく一行でも書き足して育てておきたいところだ。材料が集まっているならアウトラインを考え、アウトラインが大体整っているなら本文の断片を拵える。

 それらの準備というのは、別なことに注力している中で片手間にやっていることでもあり、いよいよ本腰を入れて着手した時には全部ばっさり没になる可能性がある(実際そうなることがしばしばある)。ならば無駄なのかというときっとそんなことはなく、芯を捉えていないものをばっさり没にできるほどそのテーマに対してアクティブな状態を維持することにそれらの努力は貢献しているはずである。