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2021-12-25

ブログ日誌:ブログを書くと別人になる

 このブログを開設してから書いた記事が40本になったらしい。

 ここを作る前にもいくつかのブログを開設しては削除し、noteも数回集中的に書いては途絶えということを繰り返したのだが、それらと今とで違っていることがひとつある。書き始めた時と書き終えた時とでの自分の変化である。

 

 三月と十月に「ド下手問題」と称した連載をやったが(アウトライナーの使い方ド下手問題ブログの書き方ド下手問題)、この時にその変化というのが顕著に感じられた。

 書く前の時点では、「ド下手」と言っている通りそれを上手くやれない状態を克服しておらず、解決の見込み自体あるようなないようなという状況にあった。過去の成長を振り返って記しているわけではなく、書いている最中では本当に下手なのである。以前だったら問題が解決してから「○○を上手くやるには」「✕✕を△△する方法」といったタイトルを付けて書こうとしたのではないかと思うが、今年に入ってその書き方はやめた。そのように題してしまうと内容の出来を保証しなくてはならない気がするし、そもそも私の「書きたい」という欲求は「他の人に伝授したい」とはイコールになっていない。

 よって解決方法を見出す前にスタートしてしまうわけだが、その場合記事の内容というのは、自分に起きていることはこうだ、自分とはこういう人間だ、ということを描写することによって成り立っている。それらは事実としてあるものであって、目を向けて言語化していけば「現時点でここにある事実はこうであるようだ」ということは言える。解決策を知らなくとも書ける。もちろん、事実を認識すること自体にコツはあり、恐らくそれなりの訓練の年月が必要で、更にその認識が必ず正しい保証など全くないが、今現在できうる限りの描写を試みることなら可能だ。なお、思考を描写することについては先日少し書いた(思った通りに書くということ)。

 言い換えると、解決策がまだ見えていないので書けることはそれしかない、ということでもある。自己の描写をするだけのものを記事にして人に読んでもらおうとするのには多少の勇気が要ったが、「アウトライナーの使い方ド下手問題」の時はもやもやを吐き出したいという欲求が尻込みする気持ちに勝って記事になった。本当にただそれだけのものになってしまってももう構わないというつもりで書いていた。

 

 しかしながら、書いてみると不思議と何かしらのそれらしい結論が出てくる。「つまりこうすればいいということなのだろう」というのが、さも当然の流れのように浮かんでくる。書き始める前は全く解決の糸口が見えていなかったのに、書いてみると何故思いつかなかったのかと首を傾げてしまう。書き終えて少し経つと、もはや何に混乱していたのかもリアルには思い出せない。

 演出を加えずに正直に書くほど、進展した時にはそれが実際にどういう状態だったのか忘れてしまうように思う。書くにあたって拵えた「設定」は覚えている一方で、その時頭の中にあった光景は記憶に留めていられない。盛った嘘は覚えていても純粋な主観はあっという間に移ろってしまう。

 話を戻すが、不思議と解決策が浮かぶというのは、恐らくツッコミを思いつくのと同じことなのだろう。岡目八目を自力で作り出したということなのだと思う。大袈裟に言えば、己の問題を見つめて自力で解決できる自分を生み出したと言っても良い。書き始める前にいた自分と、書き終えた時にいる自分は既に別人である。

 

 それでは、書きさえすればこの魔法が降り注ぐのだろうか。

 半分はそうで、半分はそうではないという答えになりそうである。

 岡目八目を作り出すには客観的に判断できるだけの材料が要る。自問自答を通してそれを書き出さなくてはならない。それが十分に言葉にされた時、自己解決の力を持った自分が降臨する。つまり、「解決策がわからない」且つ「現状はわかった」という時、現状を書き出すことによって解決策が現れる魔法がかかる(かもしれない)。

 現状がわかるとは、具体的に何を解決すべきかがわかるということでもある。そして現状をわかるためにまずあらゆることの言語化が必要になる。つまり、

何もわからない

〈言語化〉

現状が見えた

〈文章化〉

解決策が浮かんだ

ということであろう。この「文章化」の過程で生じることがあまりにも劇的であるため、ついその部分を強調したくなるが、事はもっと手前から始まっている。「文章化」で行われることは解像度を上げることで、喩えるなら性能の良い顕微鏡を用意するようなものだ。それ以前に、顕微鏡で何を見ようとしなければならないのかに見当をつけておかなくてはならない。

 「言語化」の部分はブレストと言い換えても良いかと思うが、ブレストはそれだけでは悩みの解決には不十分なのかもしれない。人の心に関わらない問題を考えるのならば事実をぽんぽん並べるだけで大方解決するかもしれないが、一方で人の心については論理の展開が鍵を握っている。自分にどういうフィルターがあるから今この悩みが生じているのかというのを知るには、ただ単語やフレーズを列挙するだけでなく、因果関係や相関関係を意識しながら文章によって表現することが必要なのだろう。

 

 昔はなぜこの効果を得ることができなかったのか?

 それは正直に書かなかったということに尽きる。最初の記事(Restart)で吐露したことだが、とにかく背伸びをしないと不安でしょうがなかったし、「この件についてはもう解っていますよ」というポーズを取らずにはいられなかった。事実の描写だけに集中することができなかったのである。

 開き直ってカッコつけをやめ、「私はこれができないんです、下手なんです」とそのまま書くことにした。そうすると、微笑みを浮かべた女神の導きのように「こっちに道がありますよ」ということがわかるようになった。道を進むともう私は別人になっている。

 「書く」ことを通してそういう体験ができるようになったことは、回り道ばかりの人生でようやく踏み出した大きな一歩だと感じている。