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2021-10-06

ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~

 ブログを書くことについて延々迷走している。迷走していない瞬間がないと言っても過言ではない。

 と言っても私の場合は投稿をさっぱりしていないので(半年で二十本程度)、方向性の混乱が読み手に伝わっているわけではないだろう。方向性を感じるほど継続的に書いていないからだ。アウトプットに至る前の空間で迷走していて、書けないまま人知れずうろうろと彷徨っている。「作家になりたいと口では言っている人」のごとく、心が空回りするばかりで実績を構築できない。

 

 書きたいことなら色々あるような気持ちだけはずっと抱いている。書き始めれば自分でも思いがけずするすると言葉を綴っているという経験もしばしばしている。文章を書くこと自体には、得意とは言えないもののコンプレックスはない。「ハマれば何かしら書ける」というふわっとした期待を持って、しかし望むような頻度で「ハマる」ことなどないままにいた。

 noteとこのブログの過去の投稿を振り返ってみたが、そうだったっけと自分で驚くほど短期間に続けて記事を投稿している期間がある。そういう時は「ハマる」ことができているか、あるいはゴリ押しする体力があるかのどちらかだ。

 ゴリ押しをどこまで続けられるかは人それぞれだと思うが、私の場合はどうやら二週間が限界らしい。何らかのテーマに対してその都度数千字をどうにかでっち上げることはできるのだが、二週間ほどで面倒臭さが意志の力を上回り、嫌になってやめてしまうことになる。十分に報酬が得られるなら頑張るかも知れないが、何の稼ぎにもならない状態では力技で執筆を続けるのは私には無理であろう。自然と投稿に堪える文章が生まれるように誘導路を整備する必要がありそうである。

 

 具体的にどういう時に「ハマる」のかという分析は後に回すことにして、そもそも何が起きているのかを考えたいと思う。

 根本的にネックになっているのは、自分の立ち位置の曖昧さである。表現をしたいという願望はありながら、私には世に訴えたいことがない。何かを見れば批判的な態度になることはままあるが、批判のための表現をしたいとは思わない。他者の批判には礼を尽くした取材が必要で、大変な労力のかかるその仕事をやり遂げてでも自分の思う正義を表明しなければ、という使命感は私にはないのである。あらゆることに私より相応しい論者が存在し、実際に世界中であらゆる意見表明が生まれている。その中のどれを選んで賛同するか考えるだけで精一杯だ。人の変わらなさに不満はあっても、人を変えたいと立ち上がる気はないのだ。甘い考えであろうが私としては変わっていく様を眺めたいのであって、自分が何かを変えて満足に思うわけではない。

 世に訴えたいことがない割に世に向けて表現をしたいとはどういうことなのか。抽象的に言うならば「エネルギーが内に向かって生まれているから」ということになるが、つまり自分の内面を描写したいのである。自分の内面を認識することに自分の思考の多くを割いてしまう癖があるために、そこに形になる成果が生まれないと割に合わない。自分のことをそっちのけで他にエネルギーを費やす才能は私にはなく、エネルギーを自己の内面に振り分けてしまうことが避けられない以上はそこに価値を生み出せないと困る。

 しかしながら、ただ私個人の描写をしても読み手にとっては意味がない。もし私がテレビで毎日見かけるような超有名芸能人ならば自己の内面を語っただけでとてつもない価値を生むかもしれないが、そういう付加価値は私には僅かにもないので、私が何かを書くに当たっては書き手が主人公であり続けるのではなく、読み手が主人公になれる瞬間がある文章を綴らなければ私のエネルギーは無駄になるだけなのだ。読み手が主人公になるとはつまり共感の感動である。

 共感を呼ぶ文章というのはそこかしこに存在して、書くのもそう難しくないようではあるが、実際にはなかなか悩みの多い話である。普遍的に共感を得られるような話は大事ではあるが、それを自分が書くことに意味があるのか。普遍的であればあるほど読み手にとっては「私のための文章」ではなくなり、「みんなのための文章」になっていく。私自身が私を普遍的な人間とは思えていないし、だからこんな調子で悩んでいるのだが、そういう人間が広く共感を呼ぶ文章を書こうというのはどこか無理がある。まず楽しくもないだろう。

 

 自分の内面を描写しながら、そこに読み手の誰かにとって主人公になる瞬間が生まれるとはどういうことだろうか。赤裸々に語るとか、同じ悩みを持つ人を励ますとか、読み手を元気づける種の文章についてよく言われることはあるが、そのいずれも私にはぴたりとはまらないようである。まず元気づけたいとは思っていないので利他の精神は続かない。内面の描写にはもちろん正直な自己開示が伴うが、赤裸々に語るというほど私自身の人物像を開けっぴろげにしたいわけでもない。私は私を対象とした研究の成果を報告したいだけなのである。

 以前倉下忠憲さんのうちあわせCastにてTak.さんに「人と違う斜め下の角度から光を当てるのがうまい」と評していただいたことがあり(第七十八回の54:30あたり)、そうなのかと思ったが、自分という全貌の見えない洞窟を探検して懐中電灯で天井を照らし「あっ、あそこはああなっているのだ」と語っているようなものなのかもしれない。世の事象について語るにしても、既に陽光の元に明らかになっていることをわかりやすくするよりも、太古の昔から確かにあるにもかかわらず見えにくいままであるところにスッと光を当てられたらよいのだろう。劇的な新発見である必要はなく、「そう言われれば確かに」としみじみ考える機会になるような内容ということである。

 

 さてどうしたら無理なく書いていけるのか、つまりどういう条件によって「ハマる」のか、ということを考えなければならない。

 洞窟の天井を照らすことが誰かに価値をもたらすとしても、天井を照らすために洞窟を探検するわけではないし、天井を照らすことが探検のゴールになるわけでもない。探検の途中に懐中電灯の光が当たった瞬間というのは、あくまで読み手を主人公にするという要件を成立させるものであって、それは話の全体にはならないのである。ここでの光とは、存在感を放つ具体的な一文であり、それは文章に於いてはある文脈の中に位置づけられたパーツの一つでしかない。

 ブログに書けそうなことを考えていくとき、その光になりそうなものを単発で閃いてしまうことがある。「閃いてしまう」と言ってもそれが悪いことと言いたいのではないが、何も文脈に基づかずにぱっと出てきてしまうと扱いに大変困ることになったりするのである。なまじ光っているだけに捨てられないのだが、その一文のためにそこから文脈を生み出すのは容易でない。どうにか記事にならないかと唸りながら時間を費やすものの、ついぞ形にならずに終わることが多い。出発地点も着地点もこれと決まらないのだ。特に着地点を見出す難しさたるや、ジグソーパズルの1ピースを見て全体像を描けと言われているが如き難題である。それは挑んではいけない戦いなのだとつい最近気がついた。

 文章の書き方の話は数多されていて本もいくらでも存在するが、前述したように私には「世に訴えたいこと」がないために、文章術のセオリーをいまいちうまく使えないできた。書けることがあっても主張がないので、「まず主張を先に書こう」の時点で躓くのである。話を構成しようにも、そもそも要素となるものが自分でわかっていないのだ。もっと気合を入れて文章術を探し回れば自分にぴったりな言説を発見できたかもしれないが、そこまでの気力がなかったので自分で悩みながら道を探すことになった。重要なのは文章を書く以前の自己分析であったと言えるかもしれない。エッセイの書き方を真似るにも、まず自分自身を最低限確かにしなければ始まらない。

 

 ということで、今後数回に分けて、私はどうしたら無理なくブログを書いていけるようになるかを検討していきたいと思う。つまり、自分の中に起こる様々なことに着目するタイプの人間が、人に訴えかけるという動機なしに自分らしい文章を綴っていく一例を作る試みである。

 流れとしては、①内容と構成の話、②文体・テンションの話、③ネタの管理の話、を予定しているが、自分に対する結論の如何によっては増えたり減ったり変更になる可能性もある。