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2021-10-30

ブログの書き方ド下手問題⑥~試行風景を実例にしようとしない~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第六回。過去の回の記事はこちらからどうぞ。 

 今回は「自分が実際にやっていること」を書くことについて。

 

 前回の結論として、「結論のない近況報告的な記事を書いていいじゃないか」ということを語った。今回の話もそれと関連することで、実際無理して結論を捻り出して失敗したことについて考えたいと思う。具体的には、「私はこうすることにしたんですよ」という「例」を記事にする際の話である。

 

 noteでもこのブログでも、私のやり方を示した記事というのをいくつか書いている。数で言えば手の指で足りる程度のもので、まあ書いたうちに入らないようなものなのだが、実際はかなりの試行錯誤を繰り返しているにもかかわらずそれらを全然書かないままになってしまったということもこの現状が示している。

 自分のそれらの記事を眺めていると、「これもうやってないんだよなー」「書いたけど割とすぐやめちゃったんだよなー」と思うことがある。継続しているものもあるが、やめてしまったことの方が多い。そうするとかなりの後ろめたさを感じる。これをやるとこういう良いことがありますよと書いておきながら、私自身がそれを続けていないとなれば、それは嘘を書いているも同然なのではないか。

 

 もちろん、一度書いたやり方をずっと継続している書き手はそう多くないだろうとは思うし、他の人がどんどんやり方を変えているのを見ても「おい、前に言っていたのと話が違うじゃないか!」とはあまり感じない。もし高い金を払ってセミナーを受講したならば、それを後で「このやり方いまいちでした~」とやられたら怒るかもしれないが、個人がやっているブログの記事に対して効果の保証を求めることはまずない。人は変化し、変化とともに成長していくものである。

 そう考えるとつまり、出来上がった記事の如何ではなく、書いている時の自分のスタンスに問題がある。

 

 これまでの自分を振り返ってみるに、自分がやっていることを書くにあたっていつも「有効性のあるやり方の実例」として出そうとしていた気がしている。試行錯誤の過程でしかないにもかかわらず、常に価値があるものとして演出しようとしていたのである。

 演出しようとしていたと言っても、確かにその時点では有効だったから書いているわけで嘘を言っているつもりは全くないし、実のところそれに価値があると見せかけたかったわけでもなかった。そもそも「有効性がある」ということを言いたくて書いているわけではない。それなのに、やり方というものを紹介するにあたってはこれこれこういう有効性があると語らねばならないような気がしていたのだ。ブログというものを書く以上、価値のある情報を出さなければ……という呪縛があったのである。

 noteに書くのであればフォロワーとスキを稼げるようでなければいけない、という気持ちもあった。「稼ぎたい」ではなく「稼げるようでなければ」というのが迷走に拍車をかけている。つまり私を背面から脅していたのは「noteに書く身として目指すべき像」という虚像であったと言えよう。これはサイトに数字が表示されることを受けて私が勝手に思い描いた像である。

 人に読んでもらうために書くのだから価値のある情報を出すのはある意味当たり前のことではあるのだが、ここで問題なのは、私がこうせねばと思っていた「価値」と、実際に文章に生まれる「価値」が違っているということである。文章が持つ価値というのは、「ここにこういう価値がありますよ」という語りではない。読み手の中の何かを動かしたということが価値になるはずである。「これに何の意味があるのかわからないけどなんか楽しそう」という感想を生むのも価値なのである。読み手としては呆れるほど当然のことだが、書く身としてはそう当然のことにはならない。内容の価値を証明しようとせずに思うことをそのまま書いただけで読み手を面白がらせるようなセンスや独自性が、何者でもない平凡な自分にあるとは信じられないからである。

 

 さて、この連載の趣旨は冒頭に書いてある通り「ブログを無理なく書けるようになろう」ということである。すなわち、読み手を面白がらせることができるかどうかはここでは二の次の話だ。良い記事を書けるようになることを考える前に、書くだけならすらすら書けるぞという域に到達したい。平凡な自分がそのまま書いただけで面白い記事になるかどうかは知らないが、ならないとしてもまず良いとしておこう。

 そもそも私が「自分はこうすることにしたんですよ」と書きたいのは、上述したように自分のやり方の有効性を示したいからではなく、ただ単に、こういう私がここにいて、こういうことをやっているんですよと言いたいからというだけである。こういうことを考えてこういうことを始めてみました、こういうことをやったらこういう学びを得たんです、それが言いたいだけなのである。そしてへえこういう人がいるんだなと思ってもらえたらそれで良いのである。別に私のやり方は他の人の役になんか立たなくていいし(役に立てばそれはそれで嬉しいけれど)、のらてつ流の何とかが広まってほしいとも思わない(広まったらそれはそれでまあ気分は良いのであろうが)。

 じゃあ、別にそれで良くない? 別にそれで良いような気がする。

 自分の試行が他の誰かの役に立つことを保証しようとしなくていい。自分の試行から何が導き出されるかを示すことに固執する必要はない。「こうしたら、こうなった」、「こう考えたから、こうし始めた」、それだけで良いのではないか。実例として意味を成そうとせず、試行は試行としてそのまま素直に書くだけで私にとっては十分だ。

 

 結論を出そうとしさえしなければ書けたはずの夥しい試行錯誤の数々が、どうして書いてくれなかったのかと私を責めているような気持ちになることがある。リアルタイムに書いていかなければ、そこにあった素朴な思いや感動は零れ落ちて「意味」ばかりが残り、本当に何かを導き出せた時にその歴史として書くほかなくなる。その日が来なければ、私の試行錯誤は私のなんてことのない一日のなんてことのないひとつの欠片として忘却の波に流されていくだけである。それらは確かに蓄積して私を形作ってはいるが、それ以上の意味を持つ可能性もあり得たのに、私は新たな脇芽が出ることを封じてしまったのだ。

 そう思い至ったからと言って、すんなり気分を入れ替えてもりもり書いていけるようになるわけではないだろう。それでも間違った方向を目指し続けているよりは未来は明るいように思う。

 

 前々からこのブログの記事を「○○日誌」と題して書くようにしていたのには、「役に立たねば」という気負いをなくす意図があったのだが、どうもそれだけではエンジンにはならなかった。表面上の鼓舞やコントロールで自分を操ることは難しく、やはり真剣に自分と向き合い自分の精神を解剖していった先に、漸く現実的な解決策というものが見えてくるのだろう。

 そういった試みをブログ記事として書こうとした時、文章に対して真摯であろうとしたついでに自分にも真摯に向き合うことができると感じる。それは正直に己を開示することを決めた自分に、天からもたらされるご褒美のようにも思える。