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2021-10-20

ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第五回。過去の回の記事はこちらからどうぞ。 

 今回は記事の完成度に対する気負いについて。

 

 これまで四回にわたって書いてきたことで「ブログを書く」ということの困難さの根幹はおおよそ解決しているのだが、いざ書くとなるとまだ足枷になるものがいくつも残っていることに気がつく。

 私が困っていることのひとつが、「軽いネタが書けない」ということだ。あるいは、軽く書こうと思って書いてみたものの、自分で納得できていないという状態である。なんとなく記事の体は成しているが、自分で何がしたくて書いたのかよくわからないということがしばしばある。

 自分で納得できるように書こうとすると、ド下手問題と題したこの一連の記事のように、数千字の規模の文章をドンドンドンと重ねることになる。そうやって書ける分は書いていきたいのではあるが、テーマに設定できるものは無限にはないので、その調子でずっと書き続けることはかなり難しい。もっとコンパクトに、スルッとまとめられるような小ささで書けないものだろうか。何かに変に引っかかっている気がしてならない。

 なお、書けないことを悩む人へのアドバイスとして「短くて構わないよ」「○字書ければ上出来」というような言葉をしばしば見かけるが、この場合に於いてはそういう問題ではないので、「気楽にまず書いてみようよ」という種の忠言は横に置いておく。

 

 起きていることをもう少し一般化して考えてみたい。

 ブログ記事を書くにあたって、ある程度意味のある話をしようと考えたとき、自分なりの結論が導き出された状態を記事として発表したくなる。これこれこういうことがあり、こういう理由によって、私はこう考えたのだ、という展開である。

 提供できる事実の情報が自分で意味を加えるまでもなくそれだけで十分に面白いのならば、ただ事実をまとめただけでも良いと思えるのだが、自分の解釈を付与して語るのが本題となればそれなりの形式に則って書いたほうが良いように感じてしまう。ちゃんとオチやケリをつけなければ、という意識が生まれる。そして結論を書くためにはそれを支える根拠の提示が必要になるし、オチをつけなければと思うと結論が出ようもないものにもなんとかして結論らしきものをでっち上げようとして冗長になっていく。

 実際、漠然と個人の気持ちだけを書かれても、そこに目新しさがなければ読んだ甲斐がないので、どうせ書くなら読み手にとって何かしらの価値が生まれるように書きたいというのはおかしな願望ではないはずだ。

 ただ、意味のある記事を書かなくてはということを前提として考えてしまうと、結論が出るまで書けないということになって息苦しい。着地点がはっきりするまで未完の大作を抱えることにもなりかねない。本の執筆ならともかく、ブログでそんな悩みに苛まれるのはブログに対して気負いすぎだろう。どうも私にはそういう過剰な気負いがあるようだ。

 

 ブログの書き方ド下手問題②で、自己の言語化を意味あるものにするための構造として、

  1. 自分にはできないこと・困っていることがある
  2. その理由はこれだ
  3. こうしていけばいいかもと思った、こういうことをし始めた

 という組み立てを示した。今回の記事はそれと矛盾しているようだが、僅か十日で否定したくなったとかではなく、前提として書いている通りこの構造はあくまで「意味あるものにするため」のものである。例えばこの一連の「ブログの書き方ド下手問題」や以前書いた「アウトライナーの使い方ド下手問題」のように、自分語りに意味を持たせる時に有効な組み立てだと考えていて、内面に渦巻くエネルギーを価値に転換しようという試みの中で用いようとしているものだ(この記事もそうなっている)。

 

 ブログを書くというとき、核にはそうやって「エネルギーを形にして放出したい」という願望があるのだが、自己を見つめてみるとそれとは別に「せっかく思いついたからなるべく面白い形にして発表したいなー」というライトな欲求もある。書かずにいられないわけではなく、書けたら良いなあという位置づけである。それがつまり「軽いネタ」であり、書かずにいられないからと思って書いている場合とは違う考え方で文章を捉える必要がありそうだ。

 自分という人間の存在に関わるとなれば、そこには何らかの結論もあるだろうし、ガッチリ構造を作って説得力や魅力を備えて発表しようというモチベーションも生まれる。一方で、別に自分の価値に繋がるようなものでもないとなれば、思いついたことを書きたいという場合でも必ずしも何かの結論があるわけではない。必要に迫られていないので持論を組み上げねばとは思わないし、自分としてはそんなことをしないでそのまま書けたらなと思う。書く側が結論を必要としていないのである。書きたい範囲を書けたらそこがゴールで、プラスアルファとして読み手が面白がってくれたらより良いというものだ。

 世の中の記事を見てみると、ビシッと結論が出ているような文章ばかりではないことはすぐわかる。感想を言いっぱなしのままになっている話、疑問に思ったという段階で終わっている話、意図して結論を読み手に託している話、様々ある。それが面白いかどうかはそれぞれの文章次第だが、結論が提示されないイコール不足を感じる文章だというものではない。論を完成させようなどと思わなくてもブログは書いていいし、面白く書けるのである(なんとも当たり前の話である)。

 

 とはいえ世界は許してくれるとしても、それはそれとして自分にとって違和感があるようではいけない。

 今まで比較的軽いネタを書いたとき、別に誰にもなんとも言われていないのだが、自分で「なんか変だな」と感じる場合が多かった。その記事が自分や自分のブログに於いてどういう位置づけなのかがわからなかったからだ。

 まず第一にブログを更新したいという思いがあり、文章になりそうなネタが思いついたから、それなりの形に整えて投稿した。ブログを更新するという目的を果たせるなら何でも良いかのようで、実際何でも良かったのである。何でも良いと思って書いていたわけではないのだが、目的が「ブログを更新したい、記事を増やしたい」というものである以上、結局は何でも良かったということになる。その結果、自分の執筆体験としての蓄積がいまいち感じられないということになった。

 ブログが更新されるのは結果であり、書きたいことを書くのが先に来るはずである。PV稼ぎをしたいならともかく、そんな気は毛の先ほどもないのに、ただ実績的なものを積みたいがために早く更新しなければと自分で自分を追い立てていた。人知れず己を追い立て続けた割に大して更新してもいないのだが、焦燥と同じかそれ以上に違和感のブレーキが強力だったことでただただ私はひとりで息苦しい思いをしていたのである。

 無理して結論めいたものを書こうとしなくてよかったのにな、と思う記事がいくつもあるのだが、結論を捻り出さないとしてその記事はどういう位置づけになっただろうか。そう考えると、多分それは「近況報告」というものだったのだろう。「○○してみた結果、~と言えそうだ」とまでいかずに「○○してみた」で止めても良かった。自分の書くものに意味を持たせたいあまりに結論を急ぎがちだったが、意味を持たせる記事は持たせるとして、別にそうしなくていいものはそうしなくていいものとしてあって良い。

 ブログを書くにあたって「エネルギーを形にして放出したい」という願望と「せっかく思いついたからなるべく面白い形にして発表したいなー」という欲求があると前述したが、今までその自分の願望と欲求にも整理がついていなかったから、役割分担させて緩急をつけることが難しかったのだろう。

 

 ということで、自分の中にあるヘビーな願望とライトな欲求を見つめながら、無理して結論を出そうとせずに素朴に書くという形を自分にとって自然な執筆形式にしていけたらと思っている。