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2021-10-23

Office日誌:思想を自分の手に取り戻そう

  先月下旬から、日記をWordで書くようになった。先々週あたりからは思考を図表化する用途でPowerPointを使い始め、ここ数日イシューの類の管理やブログネタの育苗の場としてExcelを活用し始めた。

 懐かしさと新鮮さでとても楽しい経験をしている。


 Officeソフトを個人的な用途で使うことは昔からやっていたことで、子どもの頃はらくがき帳にお絵かきをするようにOfficeソフトで表やテキストボックスや図形を作って遊んでいた。手書きでやると到底美しく描けないものを、パソコン上では本に印刷されたもののように美麗に作れることが大変な感動だったのである。定規で線を引こうとしたら指先が出っ張っていて線がぽこっと歪んでしまうということもないし、四角の中に収まると思った文章が収まらずに最後だけ無理やり細かい字で詰め込むという羽目にもならない。起こることの予測が甘い子どもでも綺麗なものが作れる、なんと素晴らしいことだろうか。もちろん子どもの私が思った「綺麗」は、今大人になった自分が思う「綺麗なデザイン」からは程遠いが、綺麗に作れるのだという感動はパーソナルコンピューターというものの可能性を鮮やかに感じる一つの要素だった。

 高校の間も特に誰に言われるでもなくWordで諸々資料を作っては自分用に印刷していたし、その後も豆論文の図化をPowerPointに百何十枚だか作ったりしていた。図化はプレゼンのために作るものとは少し違っていて、あくまで自分自身が確実に意味を再現できるようなものである。年月が経った今見直しても、きちんと図化までしたものなら意味がわからないということにはまずならない。一方Excelとの付き合いはWordとPowerPointに比べるとちょっと難しいものがあり、いくつもファイルを作っては挫折し作っては挫折しを延々繰り返していたが、それでも常に仲良くなる方法を考える対象としてあった。

 しかしながら、それほど色々やっていたにもかかわらず、ここ十年くらいは種々のデジタルツールの隆盛と流行を受けてOfficeソフトから離れ、WordやExcelを開くのは書類を作ったりきちんと関数を使って表計算をするためだけになっており、個人的で素朴な使い方をすることはほとんどなくなっていた。PowerPointの活用はしばらく頑張っていたが、それも何年か前に途絶えていた。その変化を決定的にしたのはEvernoteの登場とスマートフォンの常用である。

 Officeソフトはインターネットにパソコンを繋げる以前から使っており、アナログ手段で得た情報をあれこれするやり方というのは多少考えていたのだが、その後webページで得たものをどうするかということに直面してついぞ決着がつかなかった。また、ファイルを様々作るはいいがそのファイルをどう管理するかも悩みどころであった。そこにEvernoteが現れ、「なんでも詰め込める」「なんでも探せる」ということに神の救いかのように感動を覚えて一気に「Officeソフト以外のデジタルツール」の世界に飛び込むことになった。Evernoteの登場以降、色々な企業や個人が色々なツールを生み出し、新たな概念、新たな思想が世に生まれるたびワクワクしてそれらを試していった。一所にとどまることなく、次々と。

 とても楽しい日々だったと思う。現実の人付き合いや仕事ではかなり苦しい立場に置かれ鬱々とした日々があっても、デジタルツールの進歩を感じる瞬間は未来を明るくしてもらえたような気がして少し元気になった。痒いところに手が届くようになった、という晴れやかな感動はなかなか他のものでは得難く、いつか掻いてもらってスッキリさせてもらうべく痒いところを探していたふしさえある。

 やがてスマートフォンを日常的に使うようになり、メールや電話やゲームに留まらず情報全般を扱うものとしてスマートフォンを位置づけると、また事情は変わっていった。単純な話、スマートフォンではOfficeのファイルは扱いづらい。とはいえ扱えなくもないし一時期頑張って使っていたこともあったのだが、やはり起動の手間や操作のしにくさがネックになった。もし「使えそうなアプリ」が他に存在しなければ大してストレスにもならなかったであろうその少しの不便さが、他に無数のアプリがストアに並んでいることによって気になってしょうがなくなってしまったのである。より早く着手できるアプリ、より直感的に編集できるアプリ、より簡単に情報を検索できるアプリ、そういったものを求めて延々インストールとアンインストールを繰り返した。

 こうなると、毎日が期待ともどかしさに揺れ動く日々である。情報を扱うという本題はそっちのけで「より良い」を追いかけては「ちょっと違うんだよなあ~~~」と唸っていた。ちょっと違っているのは自分の願望を向ける先の方であろう。

 

 さて、時は2021年10月の今日である。

 今年に入ってからも様々な右往左往があり、使用ツールはいくつも転々とすることになったのだが(むしろ今年になってから過去最も激しく変動した気がしている)、ここ最近心境が大きく変わった。一言で言うならば、「思想を自分の手に取り戻そう!」といった心持ちである。

 別に洗脳されていたとか乗っ取られていたとかいう話ではないが、未熟だった自分が解決できなかったことを解決してくれる誰かの何かに焦がれるあまり、自分自身の感性や美意識、認識の形態のようなものを二の次三の次にして忘れていたような感じがするのである。最初の最初は自分自身の物の見方というのは当たり前の前提としていたのに、人の思想を渡り歩くうちにいつの間にか、「情報とはこう整理したほうがいい」というような、主語が自分以外の抽象的な何かに設定された思考に偏っていった。そのことに気づいてもいなかった。また、スマートフォンでも操作(ないし閲覧)できることを絶対の前提としてしまい、自由を自ら捨て去っていたところもある。一時期パソコンを使いづらい環境にいたという現実的な理由もあるにせよ、その環境は既に変化し、いつまでも引きずる必要はない。

 人の思想に幾度も染まり直したことは私に多くの学びをもたらし、それは今の私を作る大切な蓄積になった。そこに、十年前に置き去りにした私の素朴な思いと望みを重ねて、今こそ自分らしいコンピューターライフを送ろうと思うのである。

 そして今再びOfficeソフトを開いている。WordもExcelもPowerPointも、今になって機能を眺めるとなんとすごいソフトだろうかと思う。自分にアイデアさえあれば、その多くにOfficeソフトは応えてくれる。できると思っていなかったことが(使いこなしている人は当たり前に使っているかもしれないが)実は色々できるということにも気がつく。

 と言っても何も全てをOfficeソフトで管理するのだというのではないし、ScrapboxやらNotionやらDynalistやらもこの先積極的に使い続けるつもりでいるのだが、そういった新興ツールで無理してやっていたようなことが、今Officeソフトに向き合うと「あれっ、これでやればよくない?」とあっさり解決したりするのである。

 どんなツールも、無理をさせるとどこかで「違う方法に変えたいなあ」という思いで限界が来てしまうし、蓄積が多ければ多いほど苦しくなるかもしれない。ゆえになるべく無理がない使い方をしたい。いくらOfficeソフトが柔軟でも、例えばExcelに無理して長文を書いたりするようなことは得策とは言い難い。このツールならすんなりいくし継続も容易い、という感触を求めるのが将来をスッキリさせることに繋がるだろう。その候補から長らく外してしまっていたWordやExcelやPowerPointを、普通に常用するデジタルツールのひとつとしてカウントするようになったのがここ最近の私の大きな変化である。

 

 具体的に何をどうしているのか、仕事道具くささを除去するにはどうするのか、といった話はまた別にしていこうと思う。