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2021-06-30

発想を文脈から解放するには④~余談~

 ④の「よん」と余談の「よ」がちょっと掛かっているかな、と思ったけどそうでもなかった。

 さて、「発想を文脈から解放するには」という一連の話としてはとりあえず①の「元の文脈を保存する」、②③の「転用し得るフレーズを作る」というふたつの結論で完結しているのだが、余談があるのでついでに書いておきたい。

    発想を文脈から解放するには①~実はみんないつもやっている~

    発想を文脈から解放するには②~トリガーとアクション~

    発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~


 そもそもこの話を書こうと思ったのは「文章からできる連想ゲーム」と「アウトラインからできる連想ゲーム」の質の違いを考えようとしたからであった。それらのことはなぜか本文から跡形もなく消し去られてしまったのだが、文脈が根本から異なってしまったので仕方がない。

 その話を余談として書こうかとも思ったが、それはそれとして別のタイトルをつけて書いたほうが良いような気もするのでとりあえず置いておく。

 ということで今ここで余談として書きたいのは、今回の記事三本を書くにあたりアウトライナー上で起こったことについてである。アウトライナーで本文を書くこと、そして上述の文脈の変化(あるいは文脈からの離脱)をどう考えるかということについてメモ代わりに記していきたい。


 私にとっての「文章を書く」とは、今のところ数千字のブログとせいぜい数万字の小説しかなく、更に書くたびに環境を変えてしまっているので一向に「これを使ってこういう手順で書く」ということが定まらない。もしも締め切りを設けて本を書いたり、毎週決まった曜日などに必ず更新したりということをするならばそう呑気なことは言っていられないと思うが、現時点では誰にもお尻を叩かれる状態に身を置いていないし自分でもお尻を叩かないので、未だモラトリアムのごとくあちこちふらふらしている。

 今回はどうしたかというと、最近Dynalistの活用度を高めており、その延長として着想から本文執筆まで全てDynalistで完結させてみた。字数がよくわからないのが難点で、実際今回の記事三本で何字になったのか把握していなかったのだが、まあ普通に読んだときにこれ以上の長さは辛いかなと思うところで切っていけばそれなりのものになるだろうと思うので字数カウントは気にしないことにした。ちなみに今数えたら全部で約8200字で、記事一本あたり2500~3000字程度なので、まあ丁度いいところであろう。ストーリー仕立てにするならもう少し長くても良いが、そうではないのでこれ以上は長くならないほうが読む方も書く方も楽だと思われる。

 話を戻すが、Dynalist(つまりアウトライナー)で本文まで書いたのは初めてのことである。以前「アウトライナーの使い方ド下手問題」にてアウトライナーの持つ雰囲気というものに如何に縛られるかを長々と書いたのだが、普通の文章というのも長らくアウトライナーで書きたい気持ちにはならないでいた。しかし今回、行頭に全角スペースを打つことを自分に許したことによって普通に文章を書けるようになった。(それ以前にアウトライナーの持つ雰囲気との戦いは既にほとんど終わりを迎えているのだが、そのことについては別に書くかもしれない。)

 Dynalistで本文を書いてみてどうだったかと言うと、今のところ「とても良い」という感じがしている。アウトライナーらしさを存分に発揮しているわけではないが、下位にその文に対する補足を書いたり文章を並べ替えたりという操作がごく簡単にできる点は、普通のテキストエディタより大変便利に感じる。補足とは例えば「数字確認」とか「投稿時にこの記事のリンクを貼る」とかそういうメモである。Dynalistの場合、本文をコピペする際に補足の部分を閉じておけば本文部分だけを綺麗にコピーできる。(Transnoは閉じていても全部コピーしてしまう。その方がありがたい場合もあり、使い分けたいところ。)

 文章の並べ替えをしようとしたとき、一般的なテキストエディタでは選択して切り取って貼り付け、という作業になるかと思うが、アウトライナーではもちろんCtrl+↑/↓などでスイスイ動かすことができる。このことの何が良いかというと、喩えるならコーディネートを考えるために鏡の前で服やアクセサリーをあれこれあてがってみるのと同じ感覚で「こうするとどうかな? いやこっちかな?」というふうに見ることができることだ。アウトラインを作る時点でその作業はある程度やるのだが、実際に書いてみるとアウトライン通りには書かないし、事前には思いついていなかった文章が生まれたりするし、やはり本文を書いてからも並べ替えが必要になる。

 いや、今までは「並べ替え」という感覚でその推敲作業をしてはいなかった。Dynalistで書いてみたことで、本文を「並べ替える」という発想を得たのである。

 ちなみに、アウトライナー上での文章の単位は一項目一段落である。よって一項目が六行ぐらいになることもあり、もはや「箇条」感はないが、アウトライナーらしさに囚われずに自分がひとかたまりと思うサイズで一項目にするということに慣れれば問題はない。

 実際の作業画面は例えばこんな感じである。

スクリーンショット

 なんということはなく、ただDynalistで本文を書いているというだけである。そこにアウトライナーならではの発想が加わると、少し面白いことになるかもしれない、ということは言える。


 さて、次に文脈の変化に対してどうしたかの話をしたいと思う。

 今回、最初に考えていたことが別にあったが、ある時点で切り口をがらっと変えてしまい、その結果元々の思索に含まれていた論の展開もキーワードもすっかり消え失せてしまった。

 問題提起に対する解答として相応しいものを考えたときに、「こっちじゃなくてそっちだな」ということになったわけである。根本から違ってしまったと言ってもよい状況であり、もしアウトラインや本文を一通りしか書けない(もしくは一通りしか書きたくない)ような場所に書き込んでいたとすれば、ファイルを分けて然るべきである。

 しかし、アウトライナーは「邪魔なら閉じておく」ということが可能であり、不要な部分の存在感を限りなく薄くすることができる。実際に閉じておかなくても「閉じたくなったら閉じられる」と思えばそれだけで邪魔さはぐっと抑えられる。ということで、今回は根本で分岐してしまったそれ以前の部分をずっと上部に開いたまま別な展開の文章を書いていた。邪魔になったら閉じようと思っていたが結局閉じなかった。

 分岐以前と以後は、分かれてはいるがそこに断絶があるわけではない。遡れば繋がっている。今文章をひとつ書くにあたって分岐してしまったかもしれないが、そういう縛りがなければもやもやと一緒に漂っていたような思考なのである。その思考は今文章を書くためだけにあるのではなく、もっと根源的な「解明したいこと」のためにあるわけで、関係する全てがなるべくアクセスの良い近い場所にあってほしいものなのだ。

 よって今回、分岐以前の最初の思いつきは、今考えていることの近縁のものとして視界に入れられるようにしていた。元のルートが見えるところに保存されていることにより、そちらの文脈で書けばいいことを無理して今のルートに組み込もうとする気持ちも全く湧かせずに済んだ。

 つまり、他の文脈がきちんと見えるということが結局今の文脈を明らかにし、また幾筋もある文脈が整理されてその一帯の思考を明瞭にすることになるのだと実感した。


 また、そもそもそういう分岐が生じたこと、もっと言えば分岐を"生じさせることができた"ことは、これもまたアウトライナーの効用である。「そういえば」とか、「ちなみに」とか、「話は変わるが」とか、そういった前置きで並べておきたくなるような情報を、正しい配置は後で整理すればいいということにしてとりあえず書いておく。横道に逸れることはどのツールでもできるしアウトライナーでなければならないというものではないが、後に整理する作業のイメージがあることによって、比較的気楽に別ルートを開拓することができた。

 脱線が甚だしくなったとしても畳んで閉じてしまえばスッキリするし、まあ今回使わないとしてもそのうち使えるだろうと踏んで思う存分脱線するということができたのである。そして結局、脱線していったほうを本題にしたのが今回の三本ということになる。脱線を禁じて元の文脈でなんとかしようとしていたら、ただただ苦しむばかりでいつまで経っても記事は完成しなかったかもしれない。


 まとめると、アウトライナーで本文を書くというのも良いかもしれないということ、そしてアウトライナーは発想の分岐に対して何も違和感なく対応できるかもしれないということを今回実感した。

 後者に関してはやや当たり前の感があるが、しかしもしアウトライナーに対して先んじて「こう使いたい」「こう使わねば気が済まない」というような意識がある場合は無理して整理しようとしてしまいがちで、アウトライナーそのものの性質としてはそういう整理を私に強いてくるわけではないのだとしみじみ感じられたのが今回の収穫である。