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2021-06-27

発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~

  今回は、アイデアを元の文脈から切り離して別の文脈で活用するために必要な具体的な手順を考えてみる。

 やることとしては、前回まとめたように「条件」+「現象または結論」という形にすることを目指していく。

    発想を文脈から解放するには①~実はみんないつもやっている~

    発想を文脈から解放するには②~トリガーとアクション~

 叩き台は、この一連の記事冒頭で作った「始まった状態で始める」というフレーズである。


 本来の文脈に立ち返ると、これは「ブログの導入部分を書きたいが、書けないでいたところ、そもそも導入部分をなくしてもいいという結論に至った」ということから生じたものである。「導入部分をなくしてもいい」というポイントにフォーカスした結果「始まった状態で始める」というフレーズに辿り着いた。

 これを活用可能性の高い形に変えるとするならば、トリガーが必要になる。この場合の具体例は「ブログ」だが、そのままでは他の文脈で活用できないので一般化していくとすると、「伝達」や「記述」といった方向性が考えられる。ブログは伝えるために書くものであるので、どちらか一方に限られるのではなく両方の性質を持っている。同様のものとして書籍との比較が有効であろう。


 導入部分というものについて考えてみよう。なぜブログに導入なるものが必要となるのか。それは、読み手の関心を自分の話に接続するにあたって、助走や暖機運転のような時間が要ると感じるからである。世の中の書籍はいずれもそのように話に導くための記述を冒頭に伴っている。

 ここでひとつ生じるのは、「導入はブログでも必要なのか」という疑問である。これは導入を書きにくいということそのものとも関わり、よく考えておかなくてはならない。

 導入を書きにくい最大の原因は、どんな相手に語りかけたいのかがはっきりしないことであろう。もちろんそこで何を語るべきか自体がわからなくて書きにくいということもあり得るが、それはどちらかというと、書籍のように内容の規模が大きくそのうち何を入り口に設置すべきかが判断しにくいという場合に起こることであって、ブログのようなサイズではほとんど生じない問題と思える。

 書籍の場合は、導入というのは基本的には前情報なしにいきなり手に取った人を想定して書かれるように思われる。話をわかっている人は自分の状態に合わせてさっさと本題に入れば良いのであって、初見の読者に向けた導入に対して「前置きが長い」という批判をすることは現実的ではない。

 一方でブログはどうであろうか。ブログにはどのようにして辿り着くものなのかを考えれば、書籍とは根本的に性質が異なるかもしれないと気がつく。まず書店に並ばない。書店的な存在が他にあるわけでもない(少なくともメジャーな手段ではない)。よって、全くの偶然で遭遇するという確率はかなり低いことになる。誰かにシェアされたか、自分で関連するワードで検索して行き当たったかが主な経路で、つまりその時点で既に何らかの文脈ができているのである。

 ここが微妙なところで、読み手は自分が書こうとしている内容に全く縁がなかった相手ではない一方で、筆者である自分の文脈や主義主張を知っているわけではないことを想定する必要はある、という中途半端な状態がブログなのである。つまり、自己紹介をどこまでやるべきかという話になる。


 結論としては、私は「いちいち自己紹介的な経緯説明はしない」ということを選択して、それが「始まった状態で始める」という意味だが、そう選択した理由も明らかにしておきたい。

 まず、誤解なくちゃんと伝わるようにきっちり書いておきたい、というのは言い換えれば親切心でもあるわけだが(同時に自分自身を余計な批判から守る意味もあるが)、読み手としての自分を振り返ってみるに、読もうとしている文章に自分が知りたいことについて書かれているならば、文章が親切だろうがそうでなかろうがわかるまで読もうとするものである。肝心なのは情報の質であって、そこにそういう情報がありますよと伝わりさえすれば最低限の親切さはクリアできているとも言えるだろう。

 つまり、読み手の関心や共通認識と繋がりうることを示しさえすればよい。最善を尽くすのは善だが、現実問題としてそこにどれだけ注力できるかというのはコストと天秤にかける必要がある。最高のおもてなしをしたいがためにサービス自体が縮小しては、ブログとしては本末転倒の感がある。

 また、書籍は一度出版してしまうと後から内容を修正することがほとんど不可能だが(改訂版を出すことはできても、既に前の版を買った人に対して内容の変更を周知することはできない)、ブログの場合は簡単に補足情報を足していくことができる。記事自体の修正が可能という意味もあるが、それ以上に「新しい記事をすぐ発表できる」というところがポイントである。記事一本で全てを伝える必要はなく、改築を重ねるがごとく補い続けることができる。

 そうやってできたものが果たして読みやすくわかりやすいものであるかは置いておくとして、とりあえず「一発でちゃんと伝えなければ」というプレッシャーは不要である。効率的にPVを伸ばすという目的があるなら話は別だが、単に考えを書いて発表する場として捉えるならば、わかりやすさに固執することはないのだ。関心と結びつきさえすれば、後はわからないところを埋めようとして読み手は自然と前後を追っていくものであろう。

 これらのことをまとめて「よって導入は要らない」という結論に繋げると、「既に僅かにも共通認識がある相手ならば、勝手にわかろうとすることを期待できるので、経緯説明の導入は要らない」ということになる。

 更に一般化していくとすれば、「共通認識がある相手」は大雑把に言って「仲間」や「同志」と表現すればよさそうである。使い回すためのフレーズとしては「勝手にわかろうとすることを期待できるので」という理由部分は余計なので省略する。「導入は要らない」は否定形であるために若干アクションに繋げにくいので、「いきなり語る」と言い換えることにする。するとここにひとつのフレーズが誕生する。

 同志にはいきなり語れ!

 こうすると、ブログ以外の場面でも使うことができるフレーズになったと言えるのではないだろうか。適用し得る典型例はブログだが、「既に共通認識がある相手に語る場」という属性に広く適用できるようになる。

 なお、自分のアクションではなく巷にある現象を言い表すものとしては、「同志はいきなり語る」、更に文言を少し変えて「身内は本題から入る」といった形にしてもいい。こうすると自分自身に実践の意志がない場合でも世の中の分析の結果として使うことができる。


 ここまで考えて感じることとしては、活用可能な形に洗練させることは端的に言って大変だということである。

 たまたま最初から活用可能なフレーズを思いつくこともあるし、そうなったならばラッキーだが、多くの場合は「状態を言い表してはいるが活用しにくいフレーズ」を核として取り出してしまう。それをそのままにしていては、いい感じのことを言えたはずなのに風化したという悲劇が待っているかもしれない。本当に風化させたくない大事な閃きならば、自由に使えるように形を整えておくべきなのである。

 そして、これぞという発想の洗練に注力できるように、それほどでもない発想に無理して手を付けないということが必要だということもわかってくる。しかし「それほどでもない発想」が本当に「それほどでもない」ものなのかどうかはその場で判断できることではないので、①で書いたように常に文脈を保存しておく努力はしたいところである。