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2021-06-10

発想を文脈から解放するには①~実はみんないつもやっている~

 ブログを書く上での地味な悩みとして、「導入をどうするか」というものがあり、ぬるっと入っていくうまい書き出しが思いつかなくてしばしばエンジンがかからず仕舞いになる。一ヶ月半ほどの空白ができた理由のひとつでもあるのだが、しばらく考えて今しがた出した結論は、「導入などない」である。

 ということで、今回は「発想を、元の文脈から離れて使う」はどのような条件で可能になりそうかということを考えていく。より抽象的に言えば、文脈と連想についての思惟である。


 何かについて思索を深めていったときに、その状態を成り立たせている核らしきものを思いつく、ということがある。例えばこの記事の冒頭で書いた話について、「始め方で悩まずに始まった状態で始める」といったことを仮に思いついたとすれば、それがこの思索の核(らしきもの)と言える。よりスパッと書くならば、前半を削って「始まった状態で始める」になるだろう。

 この「始まった状態で始める」ということの真意を思い出すには、そこにあった文脈をなぞる必要がある。一段階遡れば、「始め方で悩まないために」。もう一段遡れば、「ブログの書き出しについて」。そうすると、私はブログの書き出しに悩んでいて、始め方がわからないせいで始められないのなら、既に始まっている状態を最初からえいやと書いてしまえばいいと思ったのだ、と思い出すことができる。

 ところで、メモに「ブログは始まった状態で始める」とだけ書き残した状態で月日が経ってしまったとする。そうすると、思索の核であった「始まった状態で始める」と「ブログ」が結びついていることはわかるが、文脈を失っているせいでそれが何を意味するのかわからなくなる可能性がある。「始まった状態って何?」とか、「なんでこんなことを書いたんだっけ?」とかいう混乱である。そのメモを書き込んだ時には、真理を見出したかのごとく確信を持って書いているので、月日が経ったときにまさかその意味を全く思い出せなくなるとは想定しにくい。

 この経験を何度か繰り返してしまうと、文脈を失うことが恐ろしくなってくる。良いことを思いついたはずなのに、それがまるっきり無価値になってしまう恐怖である。よって、どういう状況でどういう意図があってその結論に至ったのか、きっちり書き残しておこうとするし、結論だけぽつんと置いておくことを避けようとするかもしれない。文脈と核をがっちり結びつけてしまうのである。

 その状態が続くと、やがて「核を取り出す」「別の文脈で活用する」ということのやり方がわからなくなってくる恐れがある。一般的にどうであるかはわからないが、私の身にはそれが起こった。「文脈が失われたら意味がわからなくなってしまうのに、文脈を切り離すというのはどうしたら実現できるのか?」という不安が生じたのである。


 一方、自分の発想についてはそういった不安が生じるものの、実は他人の発想については日常的に文脈を切り離して活用するということをしている。

 例えばTwitterである。RTなどで自分の目の前に現れた文章は、本当はその前後に何かしらの文脈があったり、その発言者の普段のツイートに文脈が支えられていたりするのだが、そんなことはほとんどお構いなしに連想ゲームの題材にしてしまっている。ツイートの中にあった核らしきものを勝手に解釈して、「これってあれと同じかな?」とか「元ツイートとはもう関係ないけどこういうことを連想した」とかいう形で思考が進展していくのである。

 本の中の記述も自然とそのように活用している場合が多い。本の文脈ではこうだが、それとは異なるこの文脈に当てはめたらこう考えられるのではないか、といったことがあちらこちらで行われているし、自分もそのように読書ノートを作っていることがある。本の場合には、そこでの文脈は本の中に保存されており失われることはなく、忘れたとしても読み直せばわかる。その安心によって、じゃあ違う文脈に置いてみよう、ということを果敢に試行できるのだろうと思う。

 もっと身近な例を挙げれば、ことわざや故事成語は文脈を切り離して活用しているものの代表と言えるだろう。由来となった事物の文脈はあるのだが、それはすっかり切り離されて、そのフレーズから取り出せるイメージに共通認識を抱いておくことによって多様な文脈で転用するということが可能になっている。

 つまり、アイデアから文脈を切り離してそれを別の文脈で活用するというのは、ほとんど誰にだって普通にできるようなことなのである。そのこと自体に難しさや精神的なハードルを感じる必要はない。


 さて、それならば別の文脈に用いることができるようにするために必要な条件はなんだろうか。

 まずひとつは、元の文脈を保存することであろう。他人の発想については、本や記事があればそれを参照できるようにしておけばいいし、Twitterなら一連のツイートをまとめておけばよい。話題性があるならば誰かが全体をTogetterでまとめてくれることもあるし、自分でトゥギャるなりコピペするなりして「元々はこの話」ということが後から取り出せる状態になっていればいい。

 問題は自分の発想だが、これは少し手間をかけて書き残しておかなければならない。思考の展開を書き出すまでもなく「こうすればいいか!」と自己解決してしまったときがクセモノで、もう解決したことをわざわざ言語化していくのは気分的にも認知資源の消費的にもかなり億劫なのだが、ここをサボると忘却が死神のごとく迫ってくるし、別の文脈に乗せるということがやりにくくなる。文脈が自分の頭の中に保存された状態であるために、自分の環境が変わった拍子にうっかり失ってしまいかねない。

 条件のふたつめは、転用し得るフレーズを作ることと言えるだろう。先の例では「始まった状態で始める」がそれである。こう言い表しておくと、ブログの書き出しの話に限らず様々な文脈で使うことが可能になると思われる。

 これは必ずしも洗練されたシャープな言い回しであることを意味してはいない。実際のところどうであれば活用可能になるのかはなかなかわからなかったのだが、それらしき条件は見えてきた。

 ということで、次回は転用し得るフレーズについての自分なりの考えを書いていきたい。