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2021-08-07

余計な文脈を断つ有限性と工夫を促す有限性

  先日、倉下忠憲さんとゲストのTak.さんのポッドキャスト、「うちあわせCast」の第七十八回を拝聴し、何かを書くにあたってその範囲を内容または形式・サイズで制限するということについて語られており、思ったことがあったので書いていこうと思う。

 なお、『ライティングの哲学』はまだ読めていないので、ひょっとしたら答えが全部そこにあるのかもしれないけれど、自分で思いついたことを自分で書くことをとりあえず達成したいので、まず書くことにする。


 うちあわせCastの中で、Tak.さん曰く、部下の評価のために相手の「協調性」を書くに当たって、「協調性」の項目が用意されているとうまく出てこないが、真っさらな状態で書いていくとつまり協調性のことだという要素が現れるので、それを後から「協調性」としてまとめる必要があった、というようなお話があった。

 私もそのやりにくさを度々実感したことがあり、このことは好例だと思うので、このお話に沿って考えてみようと思う。

 倉下さんが仰っていたように、「協調性とはなんですか」と聞かれたならば、あまり戸惑わずに自分の頭の中にあることを書きやすいだろうと思う。そもそも協調性なるものについて意識を向けたことがないという人は面食らうかもしれないが、協調性の有無やその定義についてなんとなくでも思い巡らしているならば、自分なりに書くということは難しくないだろう。なぜか? それは恐らく、何をイメージすればいいのかということに迷う可能性が低いからである。協調性のないものをイメージすることは比較的容易く、それがイメージできれば自ずと協調性があるものというのが浮かび上がるであろう。

 では、人について「この人の協調性はどうですか」と聞かれた場合に困るのはなぜだろうか。

 ひとつには、協調性の有無を判定するチェック項目が曖昧だということがある。「協調性」という方向性によって、考えるべきことが絞られているにも関わらず、実のところ何を考えなくてはならないのかは至極あやふやなのである。

 そしてもうひとつ、その人の像がまだ言語化されていないのも困難を生んでいる。協調性がどうであるかを判定するための材料が、「普段見ている」というだけでは揃わないわけである。「雰囲気はわかっている」「言われれば思い出す」みたいな状態は、確かにその人を知ってはいるが、その知っていることを活用できる状態にはない。

 ここで困ったことに、判定する対象について今から言語化するというときに、例えば「この人の協調性はどうですか」という問いはむしろ邪魔になりかねない。その人の協調性は協調性としてカウントされるもの以外の要素と複雑に絡み合ってできており、協調性が協調性らしく現れるとも限らず、結局は全体を言い表す必要が生じるからである。

 それを実際に書き表さなくては把握できないか、それとも頭の中で思い描けば済むかはそれぞれの思考の形式次第だろうが、いずれにしても、いきなり「協調性」の三文字に引っかかる要素をピックアップしようとするのは恐らく現実的ではない。芋づるを手繰っていくことでしか引き出せない記憶というものは必ずある。一から芋づるを手繰ってみようという気持ちが、「協調性はどうですか」というピックアップ型の問いによって封じられてしまう気がするのである。


 また、問いの文言でもやりにくさというのは大きく変わっていくように思う。もし「協調性はどうですか」ではなく、「チームの一員として貢献していた場面はありましたか」というような問いであったならば、比較的すらすら書くことができるのではないだろうか。

 この二つの問いの間には大きな違いがある。一言で言うならば、「文脈が全方位的なままか、余計な文脈を断っているか」ということだ。「協調性はどうですか」と問われた場合、その相手について思い出さなければならないことは膨大であり、感覚としては自分が目にした全ての場面に対して物差しを当てていくような形になってしまう。
 一方で、もし「チームの一員として貢献していた場面はありましたか」と問われたならば、その人がチームの中で良い影響または悪い影響をもたらした瞬間をまずポッポッポッと思い出していけばよく、手繰るべき芋づるはそこで自然と掴むことができるように思う。

 ただしこの例の場合には、元々自分が協調性というものに強く意識を向けているならば話が変わってくる。自分の中に常に「協調性を判定する」という文脈があるならば、それに沿って考えれば簡単に書き表すことができるのであって、「協調性はどうですか」という問いに対して「文脈が全方位的である」とは感じないであろう。

 つまり、用意された問いについて、既に自分の中に文脈ができているかどうかが鍵であると言える。文脈ができているとき、その問いは「他の文脈を断つもの」として働き、考えるべきことへの集中を促すものになるのである。そして抽象的な問いは、その文脈を持っている人というのが割合として少ないだろうという点で、有効性が乏しい可能性がある。

 

 以上は内容の有限性の話だが、一方形式の有限性の話として、うちあわせCast内でTwitterが例に挙げられていた。

 Twitterの不思議な書きやすさについては以前Scrapboxの方でも書いた。間違いなく、140字という制限が言語化を促進している。

 なぜ140字だと書きやすいのかということは色々な人が分析しておられることと思うが、私なりに実感をまとめてみると、以下のような要素による。なお、「人に読んでもらえる」という点についてはここでは考えないことにする。

  • 140字のうち何割かは埋められそうな感じがする。
  • せっかくだから140字いっぱい埋めたくなる。
  • 140字のうちに収めないといけなくなる。

 まず割合の問題である。ドーーーンと巨大な紙を前に置かれて「さあ書け!」と言われると、紙のサイズに対して自分にできそうなことがあまりにも小さく、到底埋まるはずもない余白が自分を押しつぶしてきそうにも思える。
 しかしながら、ブラウザのポップアップやスマートフォンの小さな書き込み画面の中に、最大たったの140字で良いと言われたならば、それから押しつぶされるようには恐らく感じない。14字打ったらもう1割書けているのである。42字で3割、70字で半分だ。ひとつの話で140字みっちり書くのは若干苦労するとしても、何十字かでいいなら誰にでも書けそうである。「誰にでも書けそう」と思えるということがポイントだろう。

 次に、「あともう少しで満杯になる」という時に埋めてしまいたくなる習性である。
 Twitterの場合はこれが働く人と働かない人が分かれていて、「こうなりますよね」と言ってもピンとこないこともあるかと思うが、日常に於いて「あと少しだからやっちゃえ」という気持ちになることはしばしばあるのではないだろうか。LV49まで来たらLV50にしたくなる、みたいなことだ。
 それがツイートしようとしたときに働いた場合、既に100字まで書いていたとすればもう一要素足して文意を補強するとか、誤解が生まれそうなところに言葉を補って読みやすくするとかして、140字フルに使った作品を作ろうとしたくなる。(繰り返すがTwitterでこうしたくなるかどうかは個人差によるところが大きい。)

 最後に、文をまとめる工夫が必要になるということがある。ツイートが複数の細切れになるとどうしてもひとつひとつに誤読の可能性が生じるので、誤解されると困る内容だとなるべくひとつのツイートで言い切りたくなったりする。
 例えば下書きが160字になってしまったとして、これをふたつに分けずに一度にツイートするならば、20字分切り詰めなくてはならない。「~ということ」のような冗長な言い回しがあればそれを削っていくだろうし、カタカナ語は日本語にするかもしれないし、大和言葉を熟語に置き換えることもあるだろう。最初からぎゅうぎゅう詰めでは縮める余地がないかもしれないが(その場合はふたつに分けて言葉遣いにゆとりを持たせる工夫をしたほうが良いだろう)、1割や2割の圧縮はそうやってなんとかなる。その過程で文章は洗練され、言いたいことはぴしっとひとつの容れ物に収まることになる。
 このことが書き手にとってどう良いかというと、シンプルに楽しく、ゲーム的に文章を作ることができる(かもしれない)のである。

 以上の三点のうち、ひとつめは「億劫だ」という負の感情をなくす力が働いており、ふたつめみっつめは工夫の余地や達成感によって書きたさを惹起する力が働いている。
 誰にでも同じようにその効果が現れるわけではないだろうが、書く場所のサイズをコントロールすることによって、自分が楽しいと感じるポイントをうまく刺激するということは自分の経験上あり得ると感じている。ではそのサイズはなんであるかというのは、個々人の関心の対象の抽象度や文体などがもたらすサイズ感の問題であるようにも思う。

 ひとつ注意しなければならないのは、これは「文章として書き表す」場合の話であって、アイデア出しに於いてはその限りではない。というのも、例えば紙にアイデアを書いていって紙面が残り少なくなった場合、そこで起こるのは書き残すアイデアの取捨選択かもしれないからである。どんどん次の紙を出せる場合はよいが、あと一文しかここには書けないと思うと、残す価値のありそうなものを予め判断して書こうとしてしまう可能性がある。
 したがって、自由にアイデアを出していく場合には書く場所を無限に大きくできることが重要になるかもしれない。

 

 何かを書こうとするとき、何らかの意味で書く場所に制限があるということに大きな意味がある。制限がないことは自由かもしれないが、それは自分の脳を自在に働かせることに貢献するとは限らない。脳の中の芋づるを引き出してこなければならないなら、それを引き出す鈎が用意されていたほうがよいこともある。いきなり大海に放り出されるよりも、泳ぐ目安のある小さな川や市民プールに足を運んだ方が楽しく泳げることもあるだろう(安全性の話とは別に)。

 如何なる有限性が功を奏するかということについては、「人間にとって」というような大きな主語で語ることが果たして可能だろうかという思いがあり、それぞれ自分と対話することがどうしても必要になってしまうのではないかと思う。ただ、「内容と形式それぞれに於いて、どういう有限性が自分にとって有効か」という問いを自分に投げかけられるかどうかは、その後文章を書いていくに当たって非常に重要なことだろうと思うし、またその有効性の判定の基準として、私は「余計な文脈を断ってくれるものか」「自分の工夫を促す楽しさがあるか」の二点を考えていきたいと思った次第である。