総集編の続きです。
前記事で書くのを忘れていましたが、この総集編シリーズは各記事の中で「どういうブログかがわかりそうな部分」乃至「読み返していて自分がおっと思った部分」をピックアップするもので、各記事の内容の中心部分とは限りません。
28:NTA-DIY:2ヶ月目①~アウトライナーを自作してみる~
29:短文投稿サービスを彷徨う
Twitterに慣れることによって、「人に聞かせる」という行為に伴う自分の態度が曖昧になった。適当に喋っていても誰かは興味を持ってくれるということが自分を怠惰にしたと感じるし、「よそ行き」のものは「よそ行き」らしくした方がいい。「つぶやき」とか「ツイート」とか言うが、実際には本当の意味で「呟き」として読んではもらえないものだし、それ以上の何かとして読まれることをある程度想定して投稿しているところもある。ならばそれなりの意識を持った方が良いだろう。
自分が何かを発信し、それを相手が受信して発信に変え、それを自分が受信してまた発信に変える。これは会話とは少し違う。互いに相手めがけてボールを投げあっているのではなく、それぞれが全方位に電波を出したのを勝手にキャッチしているということである。情報の海のただ中にいるからこそ「会話」ではなく「全方位に電波」になる。会話は会話で必要なことだが、それはTwitterじゃなくてもいい。
30:ひとり掲示板で自由に呟く
この掲示板にせっせと一人で書き込んでいく。読む人もいるかもしれないと思いつつ、自分自身が必要とすることを書く。誰かに読まれてもいいように最低限文章を整えておこうという気持ちを動力にして、未来の自分が助かるようにきちんと言葉にしておくということだ。
「板があって、スレッドがあって、1000レスで終わりにするか場を改める」というのが「話題の管理」としてかなり合理的だなと今更ながら感じたのである。
しかし、「負けた気がする」という個人的な気持ちを払拭したいがために辛うじて1ミリくらい挑戦要素を含んだ文章をこのように勝手に書いていたところ、何もなさそうな砂場に磁石を転がしたら砂鉄がもさもさくっついたといった風に、ちょっとしたテーマが集まってきました。
33:拾い直しの旅
この二年くらいの間は、それ以前に自分にまとわりついていたものを振り払って少しずつ前に進むというようなことをずっとしてきた。脱皮していたようなものだ。
無自覚に縛られていたものを脱ぎ捨てて生まれ変われたようなところもある一方で、しかし今思えば別に手放さなくてもいいものを置き去りにしていたようである。新たな領域、空白の領域を求めすぎて、過去に一度でも触れて手放したものたちをまた拾い直すということはあまりなかった。
その拾い直しの作業をしていたのだと思う。
書けていない時というのは大体「書いていない」。書くネタを意識的に探したりしているとかえってこの状態になりやすい。何をどう書こうかと考えるばかりで、実際に着手しないのである。箇条書きで要素は並べてみるかもしれないが、他人に読ませられるような形の文章を書かない。
35:NTA-DIY:2ヶ月目②~付箋ツールを自作してみる-前編-~
きっちり整列させられるのはデジタルのとても良いところですが、逆に自由に配置したいということもあります。きちんと並んでいてほしいものはきちんと並んでいてほしいわけですが、きちんと並んでいる必要のないものがきちんと並んでしまうのはあまり嬉しくなかったりするのです。
(初学者は)疑問の持ち方とそれを表現する言い回しが千差万別なので、序盤のつまずきなのにもかかわらず先輩に尋ねて解決するのは大変に難しいものです。
36:NTA-DIY:2ヶ月目③~付箋ツールを自作してみる-後編-~
しかし、自分用なら世の中にあるような洗練されたUIでなくともよいのです。実行したいことが実行できる形であればよいのであって、それがどれだけ妙な姿をしていても何も問題はありません。つまり、「素敵なUIを作るセンス」はなくてもどうにかなります。
書き残すにあたって、普通はそういう時こそ日記の出番かと思いますが、日記を「後から読み返して楽しいくらいの記述」程度にしっかりしたレベルで継続するのが私には困難なので、自分以外の読み手の存在を借りる必要があります。人が読むと思うとちゃんと書かなければなりませんし、またそう思えさえすればするすると言葉が生まれていくのです。
そして「じゃあこんなこともできるのかな?」と何か思いつけば、もうそこに「これまでこの世に存在しなかったツール」が誕生するのです。それを作れる人は無限にいますが、誰も作らなかったからこの世に存在していなかったツールを、他ならぬ自分の手で作り出したことになります。別にそれは世界初のひらめきというわけではないでしょうが(それはそう)、少なくとも自分の視界を作っている世界の中では見当たらなかったものを自分で作り出せたなら、それは結構嬉しいことで、そして結構すごいことです。
「良い文章を目指す」としてしまうとどこかに正解があるかのようで迷走の元になりかねませんが、「良い書きっぷり」とすると私の感覚としては適度に主観的に思えます。
いずれにしても、たまたま出会った記述にその都度こだわって格闘しすぎるよりは、切り口の異なる記述をあれこれ見た方が早いと個人的には思います。書き手は各々全力を尽くしていたとしても、自分と相性がマッチしなければ読解は難しくなりますし、そもそも内容が絶対正しいとも限らないのです。
数学で言えば、平方根、指数対数、三角関数、微積分、行列などの単元に入った時の感覚でしょうか。もちろんわかる人はすんなりわかるのですが、そのステップアップに失敗して数学で挫折したという人も多いでしょう。既に自分の中にある理解の組み合わせが通用せず、正面からの格闘を求められているような感覚です。
たまたま自分で同じ形のものを作って初めて「あれってこれじゃん」と気づいて理解が一気に進んだというのは、他のことでもいくつかあります。メソッドの説明を読んだだけではよくわからなかったのが、後からまさにその挙動を欲するタイミングができた時に、自分でわざわざ複雑なコードを作ってから「もっと簡単にならないのか?」と思って「あのメソッドってこれじゃん!」と気づいたりします。
T10:チェックボックス依存症だった私 - トンネルChannel
一日のことを頭の中で考えてみた時に、チェックボックスが並んでいるようでなければと思っていたところがありますし、一日の終りにはそれらにチェックを入れられなければと思っていたように思います。チェックボックスを並べられることが「まともに生きている」ことの証明であり、チェックを入れられることが「真剣に生きた」ことの証明のような感じがしていたのです。
私が本当に悩んでいたのは仕事ができるかできないかというレイヤーではなかったのですが、苦悩の結果パフォーマンスが落ち仕事能力が下がったことによって、自尊心が直接的に傷つき、それを癒やすために仕事術に縋り、表面上の仕事能力を上げることで安心しようとしていたと思います。その象徴がチェックボックスです。
日頃あまりにも「スッキリする」ということを求めすぎているとも感じます。ちょっと大げさに言えば「日々スッキリしていかなければならない」みたいな空気を感じます。もっと「ぬるっと生きていく」ことがうまくなっていきたいと個人的には思います。
よく受験生が写真を撮るように教科書を内容を記憶してしまうという話があるが、「何ページのこの位置にこの記述がある」という情報の威力は記述を把握する上で馬鹿にならない。自分の手で作ったノートにはそれが発揮される。デジタルツールでは表示が固定されないし追記でレイアウトが変わったりするので、位置の情報は使いにくい場合が多々ある。
また、この「表示が変化する」ということが、「自分が作ったノート」への愛着を減らしていると感じる面もある。作り上げている感がちょっと足りないのである。情報が溜まっていけば「これだけ溜めたぞ!」という量的な満足は生まれるのだが、「作った」という感覚がいまいち感じられない(私だけかもしれない)。
41:ブログの書き方ド下手問題⑩~人のブログにコンボを決めたいのに~
テンションは上がったのにいまいち何も生み出せない時というのは、その対象を十分に自分に引き寄せられていないということなのだろう。漠然と「いい」「すごい」「面白い」と思うに留まり、それが如何に鮮やかな感動であっても、「自分語り」に接続できない以上は言葉になっていかない。
ここで言いたいのは、「これはこういうことなんだ」という感動だけでは、その感動の大きさの割に必ずしも表現には結びつかない、という悩みがあることである。人の文章についての咀嚼・解釈に個性はそんなに現れない。読解は筆者が意図する意味合いに迫る試みであって、そこに自分の創造性がやたらと反映されていてもおかしい。やはり咀嚼の次の一歩が必要である。筆者のフィールドの探索の後に自己のフィールドへと帰り、自分のフィールドで何かを芽吹かせることでやっと表現に至るように思う。
T11:解釈の余地がない且つ無限の解釈があり得る - トンネルChannel
シンプルシンプルと言いますが、シンプルというのは要するに何なのか。それを考えると、「解釈の余地がない、且つ無限の解釈があり得る」ということだと私は思います。
ノリノリで投稿している記事と同じテンションで書いているつもりでいるのに投稿に躊躇う時がある。それは多分、「○○な人のため」という意識が欠けている時なのだと思う。じゃあどんな意識でやっているのかと言えば、「自分(の文章)が面白いかどうか」である。自分の存在意義に意識が向いている。
T12:迷わない、手を引いてもらえる、足を引っ張られない - トンネルChannel
何かのツールをうまく使えている人には、数多のツールを渡り歩いてようやくここに辿り着いた、というような表現をする人がとても多い印象があります。それは「自分に合うツールというのはなかなかない」という事実とともに、「これだ!」と感動できるほどその人は自分の要望の解像度を上げてきたということも示しているように思います。
43:書いている時だけ天才の自分が書いた後のポンコツの自分を救う
何かを書こうとしているその一瞬だけ自分は過去にないほど天才的になり、その天才性は書かれた文章によって保存されている。自分自身は瞬く間にポンコツになっていくけれども、文章さえ書けていれば、その時一瞬だけあった己の聡明さに後から頼ることができる。
せっかくアナログの道具なのに、検索でヒットしないと出てこないデジタルツールみたいなことになっていたわけである。気分的にもよろしくなかった。自分の履歴であるところのノートが分散していると、自分自身も分散しているかのようだからだ。
正直なところ、ノウハウを知らない方が大人しく「後から見やすいノート」を作れたと思う。
インプットを変えてみて思ったのは、関心はあってもワクワクしないならしんどい、ということだ。「知っておかなければまずそう」だから頑張って追いかけているが、全然ワクワクはしていない、ということがよくある。他の人が話題にしているからついていかないといけない、それだけの理由で知ろうとしていたのであって、本当は別に好きでもない。そういうものも頑張ってインプットしていかないといけないが、自分のインプットがそれで埋め尽くされるとしんどくなってくる。
自分は何が好きかというのは案外簡単に忘れてしまう。その都度抽象化して自分の傾向を整理する努力をしないと、ハマっているものもやがて視界から外れた時点でなかったことのようになってしまう場合もある。
書けない時に「書き方」とか「ネタ」に意識を向けても、そもそも自分の体に書く準備ができていなければ言葉が出てこない。無理やり引きずり出しているようで、頑張った割に表現できたことは乏しいということにもなってしまう。もっと広く、生活自体を点検した方がいい場合もあるのだと思う。
まだ続きます。