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2023-04-16

短文投稿サービスを彷徨う

 私の中でTwitter離れが進んでいる。元々ツイートの頻度を頑張って抑えていたので発信は減っていたが、昨今の流れを受けてもはや抑えるまでもなくなっている。

 このことに関して考えていることを全部書いていこうと思う。ただ頭の中身を出したいだけで、これという結論があるわけではない。


 Twitter離れの理由は大きく分けて二つある。Twitterそのものの信用がなくなっていることと、Twitter的なスタイルに対する飽きである。元からあった後者の要素に前者が加わったことで決定的になった。

 

 前者について細かく言えば三つくらいの要素がある。

 まずトップに立っている人間の信用ならなさである。これはどちらかと言えば感情的な理由で、要するに「気に入らない」ということだ。

 次に実際的に便利さが失われているという点がある。APIの実質的な利用停止により、数々の関連サービスが終焉を迎えた。これは本当に冗談じゃないと思う。

 そしてもうひとつ、今後データがどう使われるかわからないという不安がある。AIの目覚ましい進歩に合わせて、ツイートを学習データとして使われる可能性が普通にある。イーロン・マスクはAIに意欲を示している。使われたからといって個々人に具体的な不利益が生じるわけではないとしても、こちらはそういうものに使われるために呟いてはいない。


 後者、つまりTwitter的なスタイルに対する飽きというのは、一言で言って「人間の嫌な面を見過ぎた」ということである。

 サービスがレイトマジョリティまで行き渡ってしまったあたりで、自分の中に明らかに「倦み」が生じた。同じような論争に幾度となく直面し、無限ループって怖くね?という感じである。そしてどう考えても無理がある理屈も賛同者がそれなりの規模になれば一大勢力になってしまうし、そういう集団を解体する術はなく、どこでも「なぜか吊るし上げられる」ということが発生しうる。何も問題などない良心的な人が攻撃に晒されて辟易しているのを見るのはいい加減辛い。もうそういうのから逃れたい。

 Twitterの嫌な面というのは別に最近現れたわけではなく、程度が増してきたのは事実としても昔からあったことではある。うんざりしては「もうTwitterなんかやめてやる!」と決意して、しかし次の日にはまた呟いている、ということを繰り返してきた。

 結局のところ、やめてしまうには「惜しい」のである。


 何が惜しいのか。これには発信側と受信側の二つのベクトルがあるだろう。

 まず発信する身としての惜しさは、「インターネット空間を誰かと共に生きている」という実感を失う可能性があること、そして短文を思うままに放つことで得ていた「自分の内面を自分で引き出す」という体験から遠ざかりかねないということがある。

 インターネット空間に自分の家的なものを建てること自体は簡単である。レンタルサーバーなりブログサービスなりで自分だけが使う権利のあるアドレスを得ればいいだけのことだ。しかしそれだけでは非常に孤独である。訪問者というものは普通来ないと思った方が良いくらいだろう。ここだってTwitterで更新を報告したりシェアしてもらったりしているから来訪してもらえている。それにタイムライン型のものでしか味わえない「今、他の人もこのサービス上でオンラインなのだ」という一体感というのは無意識のうちに相当な喜びをもたらしているように思う。

 もうひとつ個人的に重要だったのが、「自分の内面を自分で引き出す」という体験である。どうしてTwitterをやめられないのか、という観点で既に何度か書いたことだが、自分の呟きが自分を活性化してくれる体験の気持ち良さを捨てられない。単に気持ち良いだけでなく、そうやって自分を知ったことが自分の人生に対する解釈を変え、メンタルの強度を僅かずつ高めてきた(まだ全く脆いが、昔よりはマシである)。

 これは人に見せない日記でやっても良いはずで、実際日記によって同様の効果を得ている人はきっとたくさんいるのだが、私自身は100%自分のために何かをするということが苦手なので、「書くからには読んだ人が意味をきちんと理解できるようにしよう」という少しの利他性を動力にして文章を綴っている。長文にするとなると文章全体の組み立てを考えなくてはならないが(つまり利他性の発揮にエネルギーを費やしすぎる)、Twitterならとりあえず140字単位で意味が通じれば良いので文章化しやすい。


 受信側での惜しさの話に進む前に、最近どういう状況にあるのかという話を挟むことにする。

 周知の通り、あっちこっちで「ポストTwitter」を念頭に置いたサービスが誕生している。林立の様相である。率直に言うと似たりよったりだなと思う。どれもTwitterに対する需要を吸収すべく「Twitterっぽい」ように作ってあるのだから、似ているのは当然の話である。

 今のところ私自身が継続的にやっているのはMastodon(インスタンスはFedibird)だけで、ちょっと様子を窺ったのがNostrとSubstack Notesである。あとはTwitterの「知的好奇心向上委員会」コミュニティの避難所的な位置づけのDiscordサーバーをちらちら見ている。今巷で一番話題になっているのはBlueskyだろうか。

 Discordについては、まだ勝手がわからないのと、Twitterの情勢とは関係なく元々あったサービスであることから除いて考えるが、他の種々のサービスについては正直なところいずれもピンと来ていないところがある。根を下ろす決定打に欠ける。慣れているのがMastodonなのでMastodonにいるが、別にMastodonが一番だよねとは思っていないし、逆にMastodonはここがいまいちとも思っていない。感想がほぼ「無」という状態にある。Mastodonでさえそうなのであって、他のサービスは尚の事「無」である。それは別に魅力がないとかいう話ではなく、必要かつ十分な形式というものがもうTwitterを通して研究され尽くされていて、それを満たしていればそれ以上求めるものはないということである。要するに、ぶっちゃけ何でも良いのである。

 で、どれも一応十分な機能を備えており、人も一応いるにはいる。アーリーアダプターな人々は各サービスにアカウントを作っており、その人達を追いかければ一人ぼっちにはならないだろう。上述した「発信側」としての惜しさは両面とも一応解決している。しかしどことなく漂う「なんか違う」感。Twitterをやっている間は発信側としての有益性が自分の中で目立っていたのだが、それを一応満たしているのに納得感は乏しい。Twitter的形態に対する物珍しさが最早ないということも、書き込む身としての自分のテンションを低く抑えている。


 やはり受信側としての惜しさを今一度きちんと考えなくてはならないだろう。書くより読む・見るの方が多分大事だったのだ。

 現状困っているのは、人が分散していることである。これが致命的に困る。すごい困る。Twitterの存在意義は「万人を一箇所に集めた」という一点にあると言っても過言ではない。その意味で、万人を集めに集めて信頼を勝ち得ておいてから壊れたことを心底恨めしく思う。

 フットワークの軽い個人は今パッと散らばっている。まだTwitterに軸足を置いたままの人の方が多いかなとは思うが、その足は早晩地を蹴ることになるだろう。その先をそれぞれ追いかけるのはしんどい。しかも最も追いたいのは企業や施設、各種サービスの公式アカウント、あるいはTwitterを活動場所や連絡先代わりにしている著名人・クリエイターなどのアカウントであり、それらは容易には他のサービスに移れないのだろうから、見るものとしてのTwitterから離れることは当分できないに違いない。もし全体をカバーするならば、濫立しているマンガアプリを片っ端からチェックするがごとき忙しさである(つまりほぼ無理ということだ)。

 見る側としてのTwitterの良さというのは、自分がフォローしたいと思う人々が「シェアしてくれるもの」にあった。シェアを通じてその人の楽しげな気分を知るのが自分も楽しかったし、何かに対するその人の見解を見れるのは興味深かった。Twitterという大海に多種多様な情報がシェアしやすい形で漂っていることによって、人々が自身の関心に沿ったものをぽんぽんシェアできる。関心があってもそれを発現させる機会がなければ見ることは叶わないわけで、そのトリガーになりうるものが大量に流れていることに価値があった。Twitterの趨勢に敏感な人々が他の場に移ってしまったとして、その人達は当分の間Twitterでやっていたようには情報をシェアできないだろうと思う。そして人々が拡散することで自分の元に届いていた情報も、これから届きにくくなっていくのだろう。

 Twitterのリツイートという機能がもたらしたものについては、開発者が後悔を語っていたように(Twitterのリツイートの生みの親 後悔を語る)、正直悪い面の方が大きいと思っている。しかし自分が価値観や美意識を好ましく思っている人がシェアしてくれるものは面白いし、リツイート機能によって好ましいものに接する機会が爆発的に増えたのも事実である。そしてリツイートは「リツイートされるもの」が溢れていることで威力を発揮する。そういう環境が再びできてくれればいいと思ってはいるが、果たしてどうなることか。素人目には、ビジネス的に成り立つ道がどこにあるのかよくわからない。人類から悪感情がなくなることがない以上、Twitterがそうだったようにいずれは大量の社員を抱えなければならない気がするのだが、AIの力でどうにかできたりするのだろうか。


 縦しんば今後第二のTwitterが隆盛を極めたとしても、最初に書いたようなTwitter的スタイルへの倦みがまた生まれればなんだか馬鹿らしいところがある。多分ユーザーが増えれば同じような展開をたどるのだろうし、それを同じように眺めていれば同じように倦むことになる。もっと言うと、自分がうんざりだと感じるようなものを自分自身もまた発信しているし、それを性懲りもなく繰り返すことになってしまう。そうなれば本格的に愚かだという感じがする。

 Twitterや他の後継サービスの動向がどうであれ、Twitter的なものを使うということについて反省が要る。不満を抱きながら離れがたいという矛盾を解決してドライに使えるようになる必要を感じる。自分には、Twitterの「楽」な面に寄りかかり、ネガティブな面によって縛られているところがある。Twitter仕様になってしまっている自分を解体する必要があるだろう。

 Twitterに慣れることによって、「人に聞かせる」という行為に伴う自分の態度が曖昧になった。適当に喋っていても誰かは興味を持ってくれるということが自分を怠惰にしたと感じるし、「よそ行き」のものは「よそ行き」らしくした方がいい。「つぶやき」とか「ツイート」とか言うが、実際には本当の意味で「呟き」として読んではもらえないものだし、それ以上の何かとして読まれることをある程度想定して投稿しているところもある。ならばそれなりの意識を持った方が良いだろう。

 また、Twitterが流行ってしまったことにより、短文でない文章の「物申してる感」が相対的に高まったことも自分の枷になっている。140字でも喧々諤々なのに何百字何千字となれば如何にも主張してる感が漂う。というか、「こちらに向けて主張してきている」という捉え方が一般的になりつつあると思う。ブログに日記を書く人は随分減ってしまったと思うが、実際気楽に日記を書いて良いのか悩んでしまうところがある。「目立たないものは無視される」というだけなら全然平気なのだが、大したことじゃないのになぜか袋叩きに遭っているという光景を何度も目にしていると、無視に留まらない何かが起こる不安が拭えない。無名の人間の辺境ブログの癖にそんなことを気にするのか、というのはあまり意味のない指摘である。この傾向が大きく変わることはないだろうから、このことには何らかの割り切りが必要だろう。あるいは恐れないための工夫。

 楽さや恐れのためにTwitterでごまかしていたような面が確かにある。そうして他のサービスではなくTwitterを開いている時間が増えるから、結局Twitterを「見過ぎる」ことにもなり、余計なものを視界に入れてしまうことにもなる。Twitterではない形でできることがあるのではないか?


 私は真に何を欲してTwitterをやっていたのか。Twitterの後にもどこかで得たいと思っているものは何か。Twitterじゃなくてもまあ「不便」さえ乗り越えればどうにかなる、というものは除いたとして、やはりTwitter的な形態が唯一無二だと感じられる要素は何なのか。

 発信側と受信側とで「惜しさ」を整理したが、それらの惜しさが合わさっているところ、つまり発信と受信が混ざり合っているところにTwitter的なものの代えがたさがあるのだろう。自分の発信が自分の受信を生む状態とも言える。自分が何かを発信し、それを相手が受信して発信に変え、それを自分が受信してまた発信に変える。これは会話とは少し違う。互いに相手めがけてボールを投げあっているのではなく、それぞれが全方位に電波を出したのを勝手にキャッチしているということである。情報の海のただ中にいるからこそ「会話」ではなく「全方位に電波」になる。会話は会話で必要なことだが、それはTwitterじゃなくてもいい。

 月並みな喩えかもしれないが「種を蒔く」ようなものだとも思う。種をパッと蒔いて、誰かとの間で芽が出るかもしれないし、複数人で水をやって育てることになるかもしれないし、後から自分で発芽させることもあるかもしれない。予め話題が決まっているのではなく、誰かと繋がる予見があるわけでもなく、ただ種を蒔き、そこで何かが起きたり起こらなかったりするということ。そして他の人が蒔く種を見たい。

 最初の方で書いた、「自分の内面を自分で引き出す」という体験もTwitter的形態が都合が良いものではある。ただ、それが種蒔きと一緒の場である必要はあまりないかもしれない。自分の内面を引き出すためにやっている時というのは、あっちこっちで芽が出られても困る場合もある。書きやすさの面でTwitterは都合が良かったが、本当にTwitterでやるのが正解ではないかもしれない。自分の発信が生んでいるのはまた自分の発信であり、他者の受信・発信を通して自分の受信が豊かになっていくというサイクルを作り出していないのだ。

 ましてや、溜飲を下げるためのぼやきを垂れ流してしまうのは自分を嫌いになるだけだ。自分が使っているものを自分で嫌な感じにしてもしょうがない。(ぼやき自体が駄目という話ではなく、ぼやくことができるのは自由の証明でもあるだろうし他の人がぼやいているのは別に構わないのだが、自分にとって自分のぼやきに納得感がないということだ。)

 Twitter的なものでなくてもいいことは、自分のブログなりサイトなりに場を移すことを考えて、本当にTwitter的でなくてはできないことに集中して「やっぱこういうのは良いよな」と思えるようにする。自分の態度をそのように整えた上で、今後種々の短文投稿サービスがどう進展していくのか探っていったらいいだろうと考えている。


 結局、企業や施設、各種サービス、クリエイターなどが「アカウントを作るならここ」と考える場所がどこかに定まってくれないことにはどこだろうが納得できないのだろうし、少しでもそういう意味でクリーンなところを自分も選択したいと思う。いずれにせよ時間が必要だろうし、展開を待っている間に自分のサイトを作ろうかなと思っている。