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2023-08-30

なぜか文章を書くのが楽になった

 この頃、ブログ用の文章を書くのが楽になったなと感じている。

 文体や内容の質が変わったわけではないと思うが、なんとなくすらすらと言葉が出てくる。事前にアウトラインを整理することもなく、大体いきなり書いて、自分としては「これでいい」と思える文章になっている。


酷暑は書き物の敵


 そう言う割にそんなにいっぱい書いているわけじゃないじゃん、という話だが(毎日書いている人だってたくさんいるのだ)、今夏に関しては尋常でない暑さが影響しているので、暑さで落ちたパフォーマンスの分を差し引けば自分としては相当すらすら書けている方である。酷暑に悩まされていなければ週三本くらい書いていたと思う。

 個人的に、文章を書くというのはとても暑苦しい行為だと感じる。話を組み上げるということは集中しなければできないことだからだと思うが、じっとしていることになるから身体的に風通しが良くない。暑すぎる日にはやりたくない。同様にプログラミングもやりたくない。読書もちょっと厳しい。

 実際の室温の高低より、「今日は暑い日だ」という認識の有無が影響しているような気がする。あるいは、今現在の温度ではなく、そこまでの間に浴びた熱の量が関係している。つまり夜に何か書こうとした時に、たとえその時点で部屋が暑くなくとも、日中に炎天下に身を置いていたならもうやっていられないという感じである。単純に肉体的に疲れていて無理という感もある。

 そんなわけで、前回書いたように最近はノートの整理などをしていた(紙のノートについての自分語り)。


活力が枯渇していた


 話を戻して、なぜ書くのが楽になったのかを考えてみる。

 GWあたりから最新事情や知的生産に関連するインプットおよびアウトプットをしばらく断っていた、ということを少し前に書いた(拾い直しの旅)。

 充電期間を設けたいと思っていたわけではなかったけれども、その時点でなんとなく書くのが大変になっていたというのはあり、アウトプットをやめてしまうことにはあまり躊躇いがなかった。どんどん書いていきたいという気分ではなかったなと思う。何かが枯渇しているような感じがしていた。

 拾い直しの旅の間、いま関心があると思っていた領域のインプットをやめてしまって、かつて関心があった領域を見て回った。毎日欠かさずチェックするみたいな熱意はもう薄れてしまっているが、それでも過去に楽しんでいたものなので今見ても楽しいと思えた。


 インプットを変えてみて思ったのは、関心はあってもワクワクしないならしんどい、ということだ。「知っておかなければまずそう」だから頑張って追いかけているが、全然ワクワクはしていない、ということがよくある。他の人が話題にしているからついていかないといけない、それだけの理由で知ろうとしていたのであって、本当は別に好きでもない。そういうものも頑張ってインプットしていかないといけないが、自分のインプットがそれで埋め尽くされるとしんどくなってくる。

 たとえば生成AIの話なんかは、湧いてくる情報の量がべらぼうに多いので、諦めに諦めたとしてもかなりの量になってしまう。まず意味がわかるようになるためにある程度頑張らないといけない。その努力は必要だとは思うが、それで自分の関心が支配されるとエネルギーは出ていく一方だろう。私はプログラマーではないので、世界を変えるような新技術であろうが然程ワクワクはしないのである。


ワクワクするものをちゃんと見る


 年々新しい領域にワクワクするのが難しくなっている。本当なら新しい情報を待ち構えていてわーいやったーと心躍らせるような生活をしたいのだが、なんだかそういうノリになれるような感じではない。衰えているのか、情報の収集方法がまずいのかはなんとも言えないし、案外単純に後者の要素、つまり仕組み的な問題の方が大きいのかもしれない。毎週同じ時間帯にやっている音楽番組を見ていれば事足りた時代は実に楽だった。

 そんなわけで、残念ながら新しい領域ではないが、かつてワクワクしていたものを見て回る懐古の旅に出たことで、気分的には随分変わったような感じがする。見てきたものそのものが文章に生きるわけではない。しかし、自分は如何なる人間であったかというのを少し思い出したような気がする。

 自分は何が好きかというのは案外簡単に忘れてしまう。その都度抽象化して自分の傾向を整理する努力をしないと、ハマっているものもやがて視界から外れた時点でなかったことのようになってしまう場合もある。

 時間が経つことで整理が可能になることもあるだろうし、後から「思い出しに行く」というのは大切なことかもしれないと思う。今ワクワクできているなら要らないが、なんか風景がモノクロだなという感じがしてきたら思い出の箱を開けてみると何か変わるかもしれない。

 なんであれ、いつも何かにワクワクしていなければ、少なくとも表現をするというのは難しくなってくるものだと思う。


どう楽になったのか


 文章を書くのが楽になったというのはどういうことか、というのも言葉にしておこうと思う。一般的に「文章を書くのが楽とはこういう状態」というのを言いたいのではなく、私個人のビフォーアフターの話である。

 よく聞く言い回しで表現すると、「肩の力が抜けた」ということになるのだと思う。肩の力が抜けるってなんやねんという気持ちも無きにしもあらずだが、今の感覚を表現するならば、なんというか、深呼吸をしてふーっと息を吐く、その吐く時の脱力の勢いで言葉をすーっと出していくという感じがしている。息を吸う、そして吐く、吐く間にキーボードをタカタカ叩いていく、というイメージ。あんまり大きく吸いすぎず、普通の呼吸をゆっくりやるくらいがいい。

 最初に「事前にアウトラインを整理することもなく」と書いたように、吐いていったままの文章がそのままこの形になっている。どういう方向の話をしたいのかというのはもやもやとあるので、必ずしも単に行きあたりばったりということではないが、どういう文章でなければならないかというようなことはとりあえず考えない。書いてから余計な部分を削ればいい、と自然にそう思って書いている。そういうアドバイスを聞いてやろうとするとうまくいかなかったりするが、自分で「まあ変だったら編集すればいいや」と思ってやると全然身構えるところがない。

 これは感覚としては、「まず言葉にしておいて、後で整える」というのとは少し違う。最初から完成形のつもりで書いていって、それを自分で鑑賞して「ここは変かな」と思ったら手直しするというイメージだ。雑に始めておいて徐々に完成度を上げていくというモデルではない。手直しが多ければ結果的にそういう状態と同じになる可能性はあるが、どちらかというと「音源を作る時にちょっとデータをいじっていい即興演奏」みたいなものだろう。


 文章のテーマとして選択するものにしても力が抜けた感じがある。

 今まさに書いているようなことを、特にシリーズとして構成するでもなく、他の人の話題として見たわけでもなく、単に書けると思ったから書いた、というふうにするのは意外とできていなかったと思う。全くやっていなかったわけではないが、いつもちょっと思い切りが必要だった。

 多分、「位置づけ」ようとしすぎていたのだと思う。この内容は自分のアウトプットの領域のどの部分を占めることになるのか、みたいなことを前は考えていた。

 まず枠を拵えて、そこに流していく、というような形にしたがっていたと感じる。


 こういうことが、これまで一度もできていなかったけどできるようになった――というよりは、時々はそういうモードになれるけど久しくなれていなかったのをやっと取り戻した、ということかもしれないと思う。心境次第で普通にそうできることも多分ある。でもいつもではないし、そうできている時にも「自分が何をできていることになっているのか」ははっきりしていないことの方が多い。大抵は「なんか調子いい」という認識で終わりである。


深呼吸の流れで書く


 実際に深呼吸してもいいが、比喩として深呼吸をするように書くというイメージがあるとよいと感じる。何かのテーマや自分自身に目を向けて、静かに息を吸い、空気が無数の肺胞に行き渡る間に何かを感じ取り、そしてゆっくり吐いてすーっと言葉を出していく。

 実を言うと、この記事や前回の記事は「一回目の深呼吸」ではない。どういうことかというと、既にSNSやメモの中で深呼吸のアウトプットをしていて、それを前に置いて再び深呼吸して出てきたものがこれらの記事になっているということである。

 即興演奏という比喩を上で出したが、それは何も一発勝負というのではない。単に「自然に息を吐いたままのような文章」という話であって、一発かどうかはどうでもいいことである。むしろ一発勝負ではないから自然に息を吐いていられるとも言える。


 何回か深呼吸を繰り返すとして、力を掛けてひねりを利かせたような文章は、自分が書いたものであっても読み返した時に頭にすんなり入ってこない。一方息を吐いたような文章は、次の深呼吸で吸う時にすっと入ってくる。すいすいすらすらすーっとした文がいつでも良いわけではないけれども、何かしら面白くしようと意気込みすぎているような時は、まずは「すーっと」書いてみるとよいのかもしれない。

 「素直に書く」とか「自然体で書く」と言った方が通りが良いかもしれないが、それだと個人的には「斜に構えない」とか「飾らない」とかいう印象の方が強くなってしまう感じがあるので、あくまで「息を吐く」というメタファーで表現したい。いま肝心なのは内容の素直さではなく言語化の滑らかさである。また、「思ったことをそのまま書く」だと今度は反射的に言葉にするようなニュアンスをちょっと感じてしまう。ぱっと反射するのではなくすーっと書く。


生活と書き物


 この記事はまず暑さの話からスタートすることになったが、やはり肉体的に無理が来ている状態での書き物はしんどいものがある。そういう時でしか感じ取れないものもあるから、不調の時こそ記録として言語化する、というのも大事なことではあるのだが、人が読めるような種類の文章を組み立てるのはちょっと大変だ。なるべく健康を保ちたい。他には肩や腰の痛みなども邪魔である。

 そして心の健康も必要になる。私の場合取り立ててマイナス要素がなければいいような気になってしまうのだが、やはりプラス要素もないと活力は湧いてこないのだろう。何でも良いからワクワクしているようでありたい。未来にワクワクするのが難しければ、かつてワクワクしたものを追体験しに戻ってみる。書くのをやめてでも過去に戻ったのは個人的にはプラスになった。

 書けない時に「書き方」とか「ネタ」に意識を向けても、そもそも自分の体に書く準備ができていなければ言葉が出てこない。無理やり引きずり出しているようで、頑張った割に表現できたことは乏しいということにもなってしまう。もっと広く、生活自体を点検した方がいい場合もあるのだと思う。


 今回の変化は、自由に書くために必要なことが何なのかを考え直す良い機会になった。