このブログは更新を終了しました。移転先はこちらです。

2023-08-28

紙のノートについての自分語り

 今回は日記。


 少し時間ができたので、過去十年分くらいのノートを集めて整理した。


今までは分散していた


 逆に言うと、今までそれらは集まっていなかったし整理されていなかった。そして集まったのは11年前までで、それ以前のものはもうわからない。何かはあったはずだが、何を書いたかは覚えていないし、どこにあるかもわからない。捨てるという積極的行動を取った記憶もないけれども、とりあえず今いる環境には存在していないようだ。まあ時期的にも大したことは書いていないだろう。

 ノート・メモ類は四箇所くらいに分散していた。書棚とデスク下と深めの抽斗と段ボール箱だ。比較的最近のノート類のうちB5サイズ以上は書棚にあり、A5サイズ以下はデスク下、それ以前のもののうちメモ帳サイズのものは抽斗に、それより大きいものは段ボール箱に入っていた。書棚を整頓して、それらを全部書棚の中に並べることにした。


ノートは時系列で並べたいが


 作ったノートはきちんと時系列順に並べておかないとあんまり役に立たないような気がする。箱にしまったり抽斗に突っ込んだりしていたので、その分は当然見返すことなどしていなかった。前にもどこかに書いた気がするが、私は同じノートをずっと続けて時系列にずらっとぴしっと並んでいる光景に確かに憧れていた。しかし自分は全然そういうふうにはやれていない。そもそも、自分のノートを時系列に並べようと思いもしていなかった。

 並べようということを思いつきもしなかった最大の要因は、規格が全く揃っていないことにある。ノートのサイズもばらばらだし、大学ノートかリングノートかルーズリーフかシステム手帳かといったこともばらばらだ。その時その時で「こうした方がいいんじゃないか」と思って違う形式を試してみて、いくらかは続けるものの、いずれ次の「こうした方がいいんじゃないか」に取って代わられるのである。あんまりにもサイズが違うと、並べようにも綺麗に並びようがないので、サイズに合わせて別の置き場を考えてしまって分散していくことになった。


ノートの使い方を見直した


 そんな感じでずっと放置していたのを整理するに至ったのは、紙のノートの使い方自体を総合的に見直してみたからだった。

 使おうと思って用意したノートをここのところしばらく使っていなくて、ノートを自分の助けに出来ていないことを反省していた。確か誰かのノートを見かけたのがきっかけだったが、自分は「とりあえず頭から取り出す」「忘れるから書いておく」ということにしか使えていなくて、自分の能力を引き出すような使い方が出来ていないと感じたのだ。つまりタイムライン的な使い方がメインになってしまっていて(100%それだけというのではないにしても)、編集して「作り上げていく」という感じが乏しかったのである。昔の一時期には積極的に編集系のノートを作っていたこともあったが、その後デジタルツールとの兼ね合いを考えるうちにその習慣は絶えてしまった。

 で、タイムライン的になってしまうことのひとつの理由として、やはり「規格が揃っていない」ということがあったと思う。違う形式になってしまうと、前の形式のものに手を加える気が薄れてしまうのだ。過去のノートであるというだけで既に「記録化」しているようなところがあるのだが、そこに更に「今とは形式が違う」という要素が加わると、今現在との断絶が大きすぎて、直接編集するということがなくなっていってしまう。

 そしてもうひとつ、物理的に見返しが面倒くさい状態にあるということの問題に気がついた。四箇所に分散していたそれぞれへのアクセスが悪かったわけではなく、「あのノートを見たい」と思えばそう手間をかけずに取り出すことはできたのだが、具体的に「あれ」を思い浮かべない限りはそのノートに行き着かないという問題があった。せっかくアナログの道具なのに、検索でヒットしないと出てこないデジタルツールみたいなことになっていたわけである。気分的にもよろしくなかった。自分の履歴であるところのノートが分散していると、自分自身も分散しているかのようだからだ。


とりあえず並べた


 書棚は既にいっぱいだったのだが、自分のノートが一番いい場所に並んでいるべきだ、ということをとりあえず最優先事項に設定することにして、他のものの配置を見直して場所をあけた。本当に自分のノートが一番いい場所に並んでいるべきかどうかはわからないが、ノートと向き合っている今現在に限っては一番見やすいところにあってほしいので、そうすることにまず決めた。

 しつこいようだが規格が揃っていないので、並べてもいまいち格好よくはない。場所をとっているので「ずらっと」並んでいる感はあるが、「ぴしっと」した感じはない。

 大学ノートに書いたものを除いて、それぞれがいつからいつまでのノートかもパッと見てわからない状態だったので、ひととおりパラパラ見て期間を付箋に書き出して貼ってみた。あれ、こういう順番だったっけ、と思うところがいくつかあった。というのは、後にやったやり方の方が退化していたりするからである。


ノートの浪費とセラピー


 過去十年分の最初の方は、普通のB5サイズ30枚の大学ノートに書いていた。かなり速いペースでどんどん消費していて、一番ハイペースだった時期は大体一冊四日から十日くらいで使い切っていた。

 今と比べると創造性は乏しいし後から何にも使えない記述ばかりで、ノートがたくさん残っている割に多分自分の財産としてあまり価値がないのだが、当時はとにかくがんがん消費するということにも意味があった。罫線があると罫線に沿わずにいられず、ノートと言えば先生の板書のような書き方をしようとしてしまう、みたいな呪いめいたものがあったので、それを打破するために敢えて太いサインペンで紙を浪費するようなことをしていたのである。つまりセラピーとしてのノート使いだった。

 今は「ノートにはこう書かねば」というような縛りを感じることはないので、思い切った浪費の甲斐は大いにあったと思う。十数冊をその使い方で消費したが、浪費といっても千円もかかっていないのだから安いものだろう。


ノート術と迷走


 その時期が過ぎると、ノート術に強く関心を持ち始めた。楽しい日々と迷走の日々の始まりである。規格がめちゃくちゃになっていくのはここからだ。

 あちこちで何度も書いているが、当時私は「日経ビジネスアソシエ」や「プレジデント」という雑誌の手帳・ノート特集が好きでよく読んでおり、本屋に行ってもそういう本ばかり手に取っていた。モレスキンやほぼ日手帳が大ブームだった頃だ。隣の芝生は青いということもあって、他の人の手帳やノートはどれもとても素敵に思われた。どの人もその人なりの工夫を凝らしており、よく考えるなあと感心しきりだった。

 ちなみにノートそのものよりノートをどう使うかに関心があったので、製品としての「○○ノート」「○○手帳」を実際に買うことはほとんどなかった。使い方がよくわかっていないことに問題を感じていたので、「まだ練習期間なのに良いノートを買ってもドブに捨てることになるだけだ」という気持ちがあった。

 で、他の人の実例を見ては、そういうのもあるのかと思って新しいことを試した。自分なりの何かを見出したくてあれこれ発明した。なまじ他の人の素敵なノートを見まくっていたがために、「きっと自分が完璧に納得できる最強のノートを作れるはずだ」という思いが強くあって、思いついたものを片っ端から試しては「これは違う、こっちもちょっと納得できない」と思って次々規格を変えていた。しかも、その頃にはEvernoteの大流行があった。デジタルツールという選択肢まで入ってくるともう迷走の極みである。

 正直なところ、ノウハウを知らない方が大人しく「後から見やすいノート」を作れたと思う。「後から見やすい」と「書く時に書きやすい」や「その一冊を使っている間に活用しやすい」は必ずしも一致しないので難しいところだが、もし「後から見やすい」だけを考えるなら、淡々と何も捻らず同じサイズの大学ノートに書いていけばよかっただけだと思う。

 個人的に大学ノートは「好き」ではないので本当にそれが正解のやり方と思っているのではないのだが、より良いもの探しの試みが結果的に実用面で邪魔になった部分があるのは確かである。


自分のノートが不快


 迷走している間、気持ちとしては楽しかった。色々なものを見て、考え出して、試して、ああでもないこうでもないとやっているのはとても楽しいことである。誰にも迷惑をかけないし、誰にも指図をされない。やったことは形として残る。趣味としては悪くない遊びだと思う。

 しかし、それはそれとして、そこに書いた中身を見返すことを考えた時には大変に不快な気分になっている。遊びとしては悪くないが、自分の人生を綴ったものとしてはさっぱり良くない。めちゃくちゃな規格は記録として実用的ではないし、並べたところで不揃いでは見ていて全然気分が良くないのである。

 また単に「揃っていない」ということだけが問題というのでもない。単体で見ても不快な感じがするノートというのが結構あるのだ。書いている時はそんなに気にしていない……というか、「まあいいか」と妥協しているが、後から見るとそれが非常に気になってくる。例えば罫線の濃さとか幅とかもそうだし、余白の具合とかもそうだし、自分で何かカスタマイズした時の不安定さとかもそうだ。

 私は工作の類が好きで色々作りたくなるのだが、それをノートというもので実行に移してしまうと後から気に入らない要因になってしまう。既製品のようには綺麗じゃなかったり、余計な厚みや凹凸ができたりということになるからだ。「工作が好き」という気持ちと「自分の工作要素があるノートは嫌い」という気持ちに折り合いがつくまでには時間がかかった。

 色々なことを思いついて試すが、自分で思いついた割に、その中に自分が不快に思う要素が含まれていることが結構ある。どうしてこういちいち自分と戦わなくてはならないのかとあらゆる面でうんざりしているのだが、占いでも性格診断でも「自分の中にある矛盾に苦しむ」という話を幾度も見たので、生まれた時点でそういう運命なのだろう。

 

気分が良くなるのは何か


 過去のノートを一箇所に並べてみて、迷走の歴史に辟易しながらも、「これは今見ても良い感じだな」と感じるものがいくつかあることに気がつく。具体的に何がどうというのはここでは書かないが、自分が確かに納得できる要素も含まれているのである。

 そこで止まれずに別の可能性を開拓しに行って失敗を重ねているのが阿呆らしいが、思いついたものは試してみないとそれが良いか悪いかわからない。そして「悪い」の蓄積によって、その手前にあった「良い」が証明されたということだろう。

 書棚を眺めながら、自分が財産だと思えるノートはどのような形をしているのかを考えた。もちろん紙のノートに書き出している。サイズはどのくらいで、どういう作りで、どういう質のノートを選ぶべきか。筆記具は何を使い、各ページはどう扱い、何をどう書くべきか。ピンポイントにこれと定まったわけではないが、その枠内であれば「まあまあ納得できる」というエリアからは外れないだろうと思う。

 迷走ももうやり尽くしたという感じで、今から自分が不快なノートを作り上げてしまうこともないような気もする。過去の失敗の分析さえ怠らなければ、何かを思いついても「これは結局ここが嫌になるパターンだな」と判断できるだろう。実際に試す前に失敗作がずらっと並んでいるのを見れば「この時の失敗と同じやつだ」とわかる。視界に入るのが嫌だから箱に入れてしまうというのではなくて、見えるところに並べておいた方がその意味でも良い。


 こんな感じでこの一週間くらいノートの作り方について考えていた。今以降のノートに納得できるようにするために形式に着目してきたが、ここからは過去の自分のノートの中身を「読む」ことについて考えようと思っている。