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2023-12-07

デジタル三術法から見えるもの

 前回の記事(デジタル手帳会議)から話を膨らませていただいたこちらの記事を読みました。

 これは、デジタル手帳術、デジタルノート術、デジタルファイル術の三つの視点で「デジタルツールを扱う」ということを説明しようとする試みと言えるだろうと思う。つまり、デジタルツールそのものにデジタル手帳とかデジタルノートとかデジタルファイルといった呼称を与えるのではなく、デジタルツールを使うという行為の方にいくつかの切り口によって名称を与える試みである。

 そうして考え出された三つの名称を見ると、一周回って普通のことに見えてしまうのだが、一方でこれがなかなか当たり前ではないとも感じる。

 

 ところで、この区分けは前に自分もやったような気がしないでもないと思って記事を探したら、以下の二つを見つけた。

 名前は違うが、指し示したい領域としてはだいぶ重なるところがあると思う。問題意識が別のところにあるので話の内容としてはドンピシャではないけども。

 なおこの分類については当時倉下さんに別の観点で整理し直していただいた。

 時間軸に沿う・沿わない、終わりがある・ないの二軸でマトリクスができ、そのうちの三つの領域が私の出した「タイムライン型・カード型・デスクトップ型」、倉下さんの表現では「タイムライン(ジャーナル型)・非時間/恒久(カード型)・期間(プロジェクト型)」ということになる。

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 さて、表まで作って可視化したけれどもこれについては置いておいて、デジタル三術法のほうに話を戻すことにする。今のところ私もこの三分類に「確かにその通りだな」と納得している。

 倉下さんは以下のように仰っている。

よく言われる言い方を拝借すれば、デジタル手帳術がセルフマネジメントであり、デジタルノート術がナレッジマネジメントになる。

そうファイルだ。資料などを束ねておくためのもの。「ナレッジ」そのものというよりは、それを表したもの。そうしたものの扱いも、ビジネスワーカーには必要だろう。とすれば、「デジタルファイル術」が三つ目の術法としてあがってくる。

 前者二つと後者に性格の違いを感じ取ったのだが、何かと考えてみると、「捕捉」と「把握」の違いではないか。情報が失われてしまわないために必要なものと、情報を使えるようにするために必要なものである。そしてそれぞれ姿が違い、取り扱い方が変わってくるということになるだろう。

 手帳術は元々両方に跨っているが、手帳術をその二つの性格で分割することには意味はなく、自分の生活を司るものとしてまとめて扱ったほうが現実的であろう。

 ナレッジについては倉下さんがお書きになっているように、「ナレッジそのもの」と「ナレッジを表したもの」の二つのものを扱う手法がそれぞれ必要だ。これは結構難しい問題である。

 例えばEvernoteは全部をまとめて扱えることが売りだったが、実際には「ナレッジを表したもの」の収集・保管、つまりデジタルファイル術のツールとして使うことに落ち着いた人が多いのではないかと思う。今でもその点に於いてはEvernoteは他の追随を許していない気がしている。一方でデジタルノート術のツールとしては挫折して他のアプリケーションに移っていったユーザーが少なくないと推測する。そして当のEvernoteはデジタル手帳術をカバーしようと進化(?)してきたように見えるが、それが功を奏しているのかは微妙なところだ。

 Notionも全部を扱えるようになっている。手帳的運用もノート的運用もEvernoteより自然にでき、全ての問題がNotionで解決したという人はかなりいるのではないか。

 私自身はNotionに全てを解決してもらえはしていないのだが、それはおそらく、デジタル手帳術・デジタルノート術・デジタルファイル術をそれぞれ別の場所かつ別の見た目で実践したいということが前提にあるからだと思う。Notionの場合は「処理がちょっと遅い」というストレスも感じてはいるが、仮に爆速処理になったとしても多分「Notionひとつで万事解決!」とはならない。LogSeqでもObsidianでも同じである。

 このことは自分でツールを作る時にも非常に厄介である。自分で自由に作れるとなれば、ぼくのかんがえたさいきょうの情報ツールを作ってしまいたくなる。頑張って考えて頑張ってコードを書いて、すごいものが爆誕したような気持ちになる。しかし最強に思われたそのツールは、どうにも上手く働かない。プログラミングが下手だからか。欠けている要素が何かあるのか。いや、全てを兼ねようということ自体が自分に合っていないのだ。その「全て」とは具体的に何なのかと言えば、それがきっと手帳術とノート術とファイル術だったのだ。

 また、メタ認知によって生まれる自己についての情報の位置づけに混乱しがちなのだが、それも領域の越境に起因しているかもしれない。自分のことなのだからセルフマネジメントの領域として「手帳術」の範疇で扱いたくなるが、しかし自分を分析対象とした研究と思えばナレッジとして「ノート術」の範疇で扱った方が自然に思える。分析結果が自分の今日明日の行動に直結するのでいずれにせよ切り離して考えることは不可能だが、二種類の領域に跨っているものではないかと思っておくとやりようはまた違ってくる気がする。跨っているから併せてシームレスに扱った方がいいのか、跨っているから線を引いて二段階で扱った方がいいのか、正解は各々違っていると思う。

 

 これまで、「手帳とデジタルツール」「ノートとデジタルツール」「書棚とデジタルツール」といった対比は当たり前になされてきたと思う。しかし、それらを三本柱として総合的に考えることは意外にもなかったのかもしれない。汎用的なデジタルツールはいずれも広く兼ねてしまえるので、アプリケーションの名前を主語にして話をしてしまうと曖昧にならざるを得なかった感もある。

 この見方で「デジタルツールを使う」という行為を捉え直すことは、キーワードの普通っぽさとは裏腹に、とても面白い展開を導くのではないかと感じている。