うちあわせCast第百三十三回を拝聴しました。(私の感想メモはこちら)
興味深いテーマはたくさんありましたが、今回最も印象的だったのが、「文章に飛躍を作る」というお話の箇所でした。
飛躍を作れない
Tak.氏のブログ「Word Piece」では、一つの文章の中にシーンの切り替わりが入ることがしばしばあり、そのことがもたらす独特な読後感に私はたいへん憧れを抱いていました。
憧れるということはつまり自分にはないものということですが、どういう意味で「自分にはない」と思っていたかというのは、次の二点にまとめられると思います。
- 飛躍を感じるほど離れた位置にあるものを、一つの文章を書く中で思いつくことができない
- 飛躍を感じるほど離れた位置にあるものを、一つの文章として繋げることに自分で納得できる感じがしない
「飛躍を感じるほど離れた位置にあるもの」と書いていますが、もちろん「全然関係なくない?」と感じるような大ジャンプを意味しているわけではありません。俳句の取り合わせの妙のように、飛躍がありながらも何か通底するものを感じさせるように響き合っているところが魅力になっているのです。
流し切るように書くタイプ
この「思いつくことができない」「納得できそうにない」という要素は、自分の書くスタイルに起因するものと思います。うちあわせCastの中でも倉下氏とTak.氏のスタイルの違いとして対比がありましたが(そしてこれまでにも度々そのような話がありました)、文章を構成する一文一文がどの程度有機的に繋がっているかということが大きく関係しています。
「リニアに書く」「流れで書く」というような表現がされていますが、その調子で文章ひとつを単位として一本の流れを作ってしまうタイプの書き方があって、私もそのタイプです。もちろん、そのタイプではない人も部分部分はリニアなはずで、そうでなければそもそも文が生まれていかないと思いますが、ひとまとまりの文章になるくらいひとつの流れが長くなるのがデフォルトなのか、そこまで長くなることはないのが普通なのかという違いがあるのだと思います。
ひとつの流れが長いという時、多分流量というか、流れの強さのようなものも度合いが大きくて、途中で切ることが難しいという面があります。レゴブロックのようにカチカチ組み合わせる感じにはなりにくく、ドッと流れてしまうそのエネルギーの通る道を適切に設計するというのが、このタイプの人間が書く間に意識しなければならないことです。そして「流し直す」のが難しいというのも傾向としてあると思います。流し切るように書くタイプと言ってもいいのかもしれません。
脱線ならできる
飛躍は作れないと書きましたが、一本の文脈のみしか書けないのかというと、それはちょっと違うように思います。
実際の川が枝分かれすることがあるように、一つの元から複数の道に流れていくということはあります。その枝分かれの角度が急角度なら、それはいわゆる「脱線」になるでしょう。リニアに書くタイプの場合、その「脱線」は手前の文と結びつきが強いので、書きながら違うことを思いついてしまうというよりは、派生しうる道それぞれに流れを作っていっているということになると思います。
枝分かれした先々の間にはあまり関連性がないこともあり得ますが、元を辿るとひとつの文脈に行き着くので、ミステリアスな空気が生まれることはおそらくありません。存分に脱線させたとしても、読んだ感触としてあり得るのは「情報量が多い」というようなものだと思います。
ゆえに、いくら脱線させても飛躍はしきらないという感じです。流れが繋がっているので、たとえ「そういえば」などと言って大きく跳んでみても、スパッと切断されるほどにはなりません。
そして何かしら繋がりをもってひとつの文章を形成するのが基本になっているので、全く関係のない流れが元になっている複数の要素を並べることでひとつの文章にする、ということを自分に許すのが難しいところがあります。「これは文章の体を成しているのだろうか?」という不安に苛まれるのです。
勘違いしていたこと
このようなことを思って「いやー、難しいことをしているよなあ、すごいなあ」と思ってミステリアスな香りのする文章を拝読していたわけですが、今回のうちあわせCastを聞いてみると、ちょっと思い違いをしていたということに気が付きました。
私が自分にはできないと感じていた理由二点を再び並べてみます。
- 飛躍を感じるほど離れた位置にあるものを、一つの文章を書く中で思いつくことができない
- 飛躍を感じるほど離れた位置にあるものを、一つの文章として繋げることに自分で納得できる感じがしない
一番目については勘違いであったことが明らかです。そもそも全然別の機会に書かれたものをくっつけて成り立っているわけで、一つの文章を書く中で生み出されたものではありませんでした。Tak.氏の文章の書き方については色々読んである程度知っていたつもりでしたが、無自覚に自分の書き方を前提として文章の成り立ちを想像してしまっていたようです。
そして肝心なのは二番目の要素です。なぜ複数のものをくっつけて一つの文章にしているのかという動機を知って、すとんと腑に落ちました。自分で繋げて書いたものには生まれ得ないものを顕現させるために、切断して繋ぎ替えるということをする。必然性がないことにこそ意味がある、と言ってもいいと思います。一方で「納得する」というのは必然性をきちんと感じるということです。ということは、つまり私は全く逆の方を向いて考えていたということになるでしょう。
隣の芝生はなぜ青い
飛躍の作られ方がわかったことで、無闇に肥大していた「私にはできそうもない」という劣等意識がしゅーっと凋んでいった感じがします。もちろんセンスが問われることには違いないので、「私でもできる」という気持ちになったわけではありません。やってみても面白い文章にはならないかもしれません。それでも「やってみる」こと自体が無理に思えていた時からすると、随分気が楽になったように思います。
文章の作り方というのは人それぞれあまりにも異なり、そして出来上がった文章というのはある程度以上のレベルであればいずれもなんだかすごいもののように思えるもので、自分と自分以外の人の間にある距離というのが測りにくいものと感じています。隣の芝生は青いのです。そしてその青さというのが結構強烈に青いのです。でも実際の青さがどういうものかはよくよく見ないとわかりません。
自分には無理だ~と感情的に嘆く前に、本当のところを知っていくことで変えられる意識もある、ということを感じる一件でした。