このブログは更新を終了しました。移転先はこちらです。

2023-09-04

フラッシュバックする黒歴史の扉を閉じる

 今回の記事は日記です。


 黒歴史のフラッシュバックにいつも悩まされています。

 太宰治の『人間失格』の一節、「恥の多い生涯を送って来ました。」を自分史の冒頭に付したい人は数多いと思いますが、例に漏れず私もそうです。


抑圧と暴発の黒歴史

 急になぜか変なところで強情になることがあり、そしてそういう時の自分の主張は間違っているものです。周りにとっても間違っていますし、自分自身にとっても「自分としての標準」から大きく外れていることがままあります。昨日も明日もそうは思わないしそうはしないのに、今日の今この時は異常にそれに固執する。何かに乗っ取られているような感覚です。普段は目立ちたくなどないのに、なぜか突然でしゃばってしまったり。

 単に勘違いや無知でかいた恥というのも多々あります。まあでも、「うわ~~~っ、恥ずかしい~~~~」と言っていられる程度の恥なら可愛いものです。自分が制御不能になったような黒歴史は、恥ずかしいというより恐怖の方が遥かに大きいのです。自分がいつ自爆ボタンを押すかわからないわけです。そのボタンは突然手のひらの中に現れ、気づいた時には押してしまっているのですから。


 そんなわけで、自分の人生での頭がおかしい瞬間を網羅した黒歴史のアルバムを毎日開かされているような苦しみとともに生きているのですが、言うまでもなく非常に辛いです。そんなにしつこく思い出してもしょうがないと思うのですが、私の脳はよっぽど私に反省させたいのか、この習慣をやめにしてくれる気配はありません。

 突発的に頭がおかしくなる原因というのは一応あります。一言で言うと自己の抑圧に対する反動で、自分の規範性をぶち破れればそれでいいみたいなことです。神経症に陥っていれば何らかの形で襲いかかってくる現象でしょう。

 頭がおかしいことをした自分を規範性でもって罰して押さえつければまた同じことになります。それこそが嫌だという叫びなのであって、自分に対して素直にならなければなりません。私はその努力をずっと続けてきました。

 私の脳は自己の抑圧に対する警告を今なお発し続けているように私は感じています。そう警告されるに足るほどの抑圧があったので警告され続けるのは仕方がないのですが、生きていくのが辛くなるほど徹底的に懲らしめられても困ってしまいます。そこまでして生きている意味はあるのでしょうか。


終わりにしていいと自分に伝えたい

 ずいぶん前にTwitterで、「そのことはもうおしまいにして大丈夫だよ、ということを自分に伝える」というような話を見かけました(文言は曖昧です)。それは多分とても重要なことで、最終的にはそれが唯一の解決策とも思います。

 以前海外のテレビ番組を紹介した番組で、極端な偏食を治療するということをやっていました。極端とはどのくらい極端かと言うと、何十年も全く同じジャムパンしか食べないとか、全く同じピーナッツバターを塗ったものしか食べないとか、そういうレベルの極端さの偏食です。好き嫌いが激しいとか特定の食感が苦手とかそういう次元ではありません。ごく限られた「安心できるもの」以外を全て拒絶する、明らかな異常事態です。

 カウンセリングを受けた人々は皆幼少期に何らかの苦しい体験を経ていました。その苦しみをやり過ごす過程で自分の中に厳格な門番が生まれてしまい、その門番が普通の食事の通過を許さなくなっていることが異常な偏食の原因であるとし、その門番に語りかけることで自分を安心させていく、という内容でした。テレビ番組を見ただけなので治療法の信頼性がいかほどか私には判断できませんが(怪しいと思っているとかではありません)、体感と見聞からして、防衛機制がそのように働きうることには納得できました。

 体験が自分を捻じ曲げることは普通にあります。そしてその捻じ曲がりを元に戻すのもまた、何らかの体験なのだと思います(認知行動療法のように)。


 問題は「終わりにしていい」ということを自分に伝えるにはどうしたらいいかということです。「終わりにしていい」と自分の意識が言っても、自分の無意識がそれを信じなければ意味がありません。多分、Twitterで見たツイートで救われた人もいればさっぱり救われていない人もいて、後者は「終わりにしていい」というメッセージが無意識にとって茶番になっているのではと想像します。まず私がそうでした。

 正直なところ、私の意識はこれを終わりにしてしまっていいのかということ自体に迷いを抱いています。「終わりにしていい」と言う時には、「もう大丈夫なのだから」という、やめていい根拠が必要です。それに納得するから終わりにできるのであり、「大丈夫じゃないかもしれない」と思っていれば自分の無意識は意識の言うことを信じないでしょう。

 例えば認知の歪みの矯正には苦労しますが、それにも増して、突発性が今後も現れないことを信じるのはなかなか難しいと感じています。忘れた頃に突然やってくるものだからです。自分の日々について「ちゃんと大丈夫だったぞ」と確認して実績を作っていくことができないのです。

 私が苛まれているのは過去のことであり、間断なくこの突発性に悩まされ続けているわけではありません。最後に発生したのは結構前のことです。でもそれは「だからもう大丈夫」と言えるだけの根拠にはならないのです。

 むしろ、「突発的におかしくなることがまたあっても、それはこういう仕組みだから不安に怯えなくていい」と納得した方が良いかもしれませんが、とりあえずまだその域には達していません。


扉を静かに閉じる

 で、ようやく本題ですが、これに対処するためのイメージの持ち方をふと思いつき、もしかしたらうまくいくかもしれないという感触を得ました。

 こういうのは人の話を聞いて「そうか、なるほど!」と言って試してすぐ功を奏するものでもないと思うので、真似してみてくださいねなんてことは専門家でもない私にはとても言えませんが、自分の記録を書いておくことには意味があると思うので書いておきます。(元よりこれは日記です。)

 普段から積極的に念じるというタイプのものではありません。黒歴史の再生が始まってしまったらそれに対して念じて対処します。


 黒歴史の再生に襲われたら、なるべく再生速度をゆっくりにして、できれば一時停止します。そうしながら、その画面から身を引くようにして(再生画面を奥の方にちょっと追いやって)、実はその画面の手前に扉があった、というようにイメージします。つまり、実は扉の向こうを見ていたらしいというイメージです。自分の心象風景の中にひとつの開いている扉があって、その向こうでこの黒歴史が再生されていたのだ、というイメージを持ちます。

 そうしておいて、扉を静かに閉めるのです。閉めたことが向こうに伝わらないようにそっと閉めます。扉をうまく物理的に想像できないと、扉を閉めても向こうにある映像が透けて見えてしまいますが(そうなりました)、とりあえずそれでもいいので、透けるならガラス戸だと思ってまず閉めておき、その場から後ずさってじわじわ遠ざかるイメージを持ちます。遠ざかりながら、今自分が考えたい他のことを思い出していきます。無理に切り替えようとはしないで、すーっと視線を移していくような感じです。

 こうしてみると、なんとなく、なんだか大丈夫な感じがしました。

 扉は閉めましたが、この黒歴史については「終わりになった」わけではありません。扉の向こうには黒歴史が存在し続け、開けばまた鮮やかに蘇ってしまいます。設けたのは「とりあえず今は見なくていいかな」という選択肢です。気づけばまた黒歴史のフラッシュバックの渦中にいたりしますが、そうなったら再び後ずさって扉を閉めます。そうすると、その光景が記憶から消えはしなくとも、今この瞬間ではフェードアウトしていくという感触は得られました。


 前までは、他のことに強引にスイッチさせようとして、過去の光景と今考えたいことの想像が交互に脳内で点滅してしまうようなことがありました。そうすると、下手をすれば今考えていることが黒歴史に汚染されて、黒歴史再生のトリガーになりかねないので、そうなることにかなりの恐ろしさがありました。既にごく一般的な名詞や物事について黒歴史がリンクしてしまって苦しんでいるので、そうやってトリガーが広がっていく可能性というのを常に警戒しているのです。

 この「扉を閉める」というイメージがいつまで通用するのかわかりません。でももし「扉を閉めてしまえば大丈夫」という風に安心していけるようになったならば、私の日々は随分楽になってくれると思います。