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2023-10-29

際限なく書けることを自分に示したい

 最近すいすいと文章が書けている感じがする。

 波に乗って二ヶ月ちょっとくらいはノンストップで書いているのだが、今までにない自由さと手応えを感じている。


 楽に書けるようになった理由や「楽に書けている」という状態の詳細は少し前に書いた。

 一言でまとめると、昔好きだったものに触れ直してワクワクする心を少し取り戻したことにより、すーっと息を吐くように自然に文章化が進むようになった、という話だ。

 大体こういう話を書く時は、「しがない辺境ブログのくせにな~に言っちゃってんだか」みたいな声が自分の内からガンガン響いてくるのだが、「継続的な読者が一人でもいればいいのだ!」と決め込んで構わず書くことにしている。何事も、たとえ見せかけでも堂々としているものの方が面白いはずだ。

 

連続投稿で力尽きた経験

 さて言い訳はこの辺にして、今回も開き直っていきましょう。

 二日に一本くらいのペースで、時に数日連続で投稿しているが、全然無理している感じではない。毎日書かなきゃと思っているわけでもなく、書けるものを書こうとした結果このペースになっている*1。この先もこの調子で続けていきたいと思っているわけでもない。書く気分じゃなければ休めばいいと思う。ただ、多くても一日一本しか書けないと考えた時に、どんどん書いていかないと私の頭の中身は表現しきれないと少し恐ろしくなってせっせと書いている部分はある。

 以前にも二週間くらいなら毎日投稿みたいなことをしたことがある。時間的に余裕があった時期のことだ。頑張ったが、二週間できたなら一ヶ月でも続けられるし一年でも続けられる、なんてことにはならなかった。心底書きたいことを書いていたわけでもないから一本書くのにもいちいち苦労し、二週間で自分の気力を使い果たして、次に書けるようになるまでには二週間どころでなく時間を必要とした。

 ネタというのは無限ではないし、ネタが生まれる土壌がなければただただストックを使い果たして終わりなのである。書き続けられるかどうかというのは、文章術がどうこうより書く題材(自分が実際に書ける題材)を切らさないでいられるかの問題であろう。

 

140字書けるなら2000字書ける

 ネタを切らさないということを考えると、「大量に溜めてある」か「常に湧き出てくる」か、そのどちらかに注目するものと思う。まず「ある」状態が必要なわけだから、「既にある」か「今生まれたからある」かいずれかが必要になることは自明だろう。

 もちろんそのどちらかがないとどうにもならないのだが、もうひとつ重要なのが、ネタを諦めてしまうかどうかだと思う。大量にネタらしきものがあったとしても、書けそうになければそれは無いのと同じである。諸々の条件が整うことによって蘇る時が来る可能性はあるけれども、その時が来ない可能性も当然ある。

 で、すいすい書ける人というのは、思いつくネタ自体多いかもしれないが、すいすいとは書けない人が諦めているようなネタを使って書けるというのもあるんじゃないかと思っている。

 自分比で考えると、前ならせいぜいSNSにポストして終わりにしていたような話を、今は記事にしてしまえるだろうと感じている。140字書けるなら2000字書けるだろう、という調子である。むしろ140字書けるくらい何かしらの思いがある話ならちゃんと書かないと駄目だという心境になっている。今はというのは、具体的には今年の八月からである。


 140字から2000字にするという時、増えた1860字は「水増し」なのだろうか? いや、そんなことはない。140字で何か言えた時、十分に言えているような気がしても意味の伝達としては決して十分ではない。哲学者の名言を見ても一般人にはそれだけでは何を言っているのかわからないのと同じように、文脈を共有していなければどういう意図で何を言っているのかは伝わらない。たまたま同じ文脈を知っている人が「そうだそうだ」と言ってくれるかもしれないが、それはどう考えても多数派ではない。別な文脈に乗せて納得したつもりで「そうだそうだ」と言っているかもしれない。

 よって、人に伝えたいなら得心に導くように文脈をすり合わせる過程が必要になる。それが増えた1860字分であり、そのくらいは増えてしまうものであろう。人に伝えたいと思っていない、ただ「言いたい」だけならば140字で終わってしまい、それがブログに投稿できるサイズになるとは判断できず、ただSNSの大海の中に消えていく。

 

打てる球があったら打ってみる

 話は変わるが、使うネタを厳しく選別しているような時、それでもちゃんと書こうと思うものは相当気合が入ったものになる。それを書いて発表しても自分は侮られないだろう、と信じられるものであったりする。隙のないものを目指したり、自分のオリジナリティの演出に尽力したりして、すごく頑張ることになる。

 別にそれがおかしいことなわけではないし、素直に等身大のものを書くのがいつでも正解というのでもない。背伸びが枷になる人はやめた方がいいというだけのことで、背伸びこそ傑作を生むのに必要な姿勢だということも普通にあると思う。権威や伝統はその種の努力で今に至るまで守られている。

 で、背伸びが合うか合わないか、ネタを厳選すべきかそうでないかは各々見極める必要があるだろう。自分にホームランしか許さないとして、それが自分自身にとってプラスに働くのかどうか。

 私自身はと言えば、そんなに「書くならホームランに」と思っていたつもりはなかったのだけれども、それは「他人からホームランと見なされる」ことを目指してはいなかったというだけで、自分の中で「過去最高」を目指していた節があった。前に進みたいという気持ちが強すぎたのだろう。そうなると、一年前なら書けたものが今年は書けないといったことが生じうる。

 しかも、「この程度のはもう書いてちゃいけない」という判断は自分の勝手なもので、その内容が実際に他の人にとってつまらないかどうかとはまるっきり関係がない。他の人を豊かにできたかもしれないものを捨ててしまう可能性があるのだ。

 成長し続けられたらいいと思いながらも、成長を自分や他人に証明しようと躍起にならないこと。打てる球があったらとりあえず打ってみる。ホームランにならなくて良いという意味で「ヒットを打とう」と言いたいが、ゴロやファウルでもいいと思う。それがブログであろう。


正直な話

 正直に言うならば、私はとにかく書き続けられる人間になりたいと思っていて、長年「そうなれるはずだが何かに足を引っ張られている」と感じていた。つまり書く能力自体がないのではないと信じていた。その感覚は正しかったと自分に示したいという気持ちがある。

 ただ書くなら誰でもできる、無価値なものを書いてたってしょうがないだろう、という話はそれもまあ真実だろうと思う。なので、自分が書くものが「この世に生まれてよかったもの」となることを目指す意志はある。

 ただまあそれはそれとして、私にとっては城を築いていくことが第一なので、私はこういうものですと言ってブログを見せた時に「よくわからんけどなんかすごい感じがする」というふうになるように、とにかく建設工事をバリバリ進めていきたい。そして進めたい時には当たり前に進められるという自信を得たかったのであり、それを今得つつあるところである。



*1: 当然のことではあるが、記事を書くことに時間を積極的に振り分けているということは他の「やらなくても大丈夫なこと」はやらないでいるということだ。どれほどやる気があっても残念ながら時間が増えるわけではない。