私は極度に飽き性だということを何度か書いている(はず)。
全く変化のない単純作業はやっていられないし*1、同じツールを使い続けられないし、同じ本を何十頁も続けて読めない。基本的に「こつこつやる」ということが苦手で、色々なものをちょっとずつやってじわじわステップアップしている人を本当に尊敬している。
と、長らく思っていたが、ふと気がついた。飽き性だから一つのことを続けていられず、すぐ他のことを始めてしまう――それは結局、色々なことをちょっとずつやっていることになるのではないか?
結果として継続しているということ
こつこつやるというのは「ちょっとずつやる、を継続する」ということだと思うので「継続する」が難しい自分にはかなりつらい。いや、正確には「継続しようとする」だ。「継続しようとする」ということは考えただけで「無理!」という気分になる。*2
しかし、結果として継続していることなら実際はいくらでもある。例えばブログもこうやって書き続けている。でも毎日○字書こうとか○日に一本投稿しようとか言い出すともう駄目である。某投稿サイトの「○日連続投稿おめでとう」みたいな表示は心底余計に感じる。
極度の飽き性の人間はたぶん一日当たりの作業量を事前に意識してはならない。それは作業量の多寡とは関係ない話で、「毎日たったこれだけ」みたいな計算は慰めになるどころかむしろ邪魔なのである。
実際何をどの程度やれるのか
毎日これらをこれだけやれば○日後にはこんな量に、という見積もりは挫折の入り口なので避けるとして、しかし完全に無計画に生きていると結局何も進まないということになりかねない。
作業量の目標を設定するのが難しいとなれば、できることは何か。それは実際に毎日どれだけの労力を使うことができて、それをなるべく多く使った時に何がどの程度できるのかを把握することだろう。つまり、なるべく多くの時間で何でもいいから何かをやる、そうした場合に自分のパフォーマンスはどのくらいになりうるのかということだ。
そうすると、とりあえずその見積もり以上の作業量は実現できないことがわかる。逆に、飽きてあれこれ別なことに手を付けたとしても、それをトータルすればそのくらいの作業量にはなるはずであることもわかる。飽きて他のものに移るということをすると、それぞれ目標に定めた量に到達しないでやめてしまうことになる場合が多いので、結局どれも何にも進んでいないという感覚になるのだが、実際にはゼロではない。集中力を欠いて実質何もできていないという時間で埋まらない限り、前には進んでいるはずなのである。
実質何もできていない時間
飽き性にとって恐ろしいのはこの「実質何もできていない」時間の発生だ。無理に目標を達成しようとすると最後の方はこういう感じになってくる。あとちょっとだからと思って頑張るが、効率は大きく落ちるし、やり終えた後は気力が尽きていて他のものには移れない。よって目標を達成することより、「実質何もできていない」時間をゼロにすることを目指した方が良いだろう。
そして「実質何もできていない」時間がほとんどなかったなら、何をどういうふうにやっていたにしろ、その日自分にできるベストは尽くせたということだ。なるべくベストを尽くして日々を過ごして、それでも結果が思わしくないなら、それ以上「足す」ことはできないことがわかっているわけなので、内容の適切な配分を考えることになる。
配分をぬるっとコントロールする
で、ここで「じゃあ何曜日は何を何分やって……」とやりだすと駄目なのは最初に書いた通りである。もっとぬるっとした対処が必要になる。何かをやっていて飽きて他のものに移るという時に、頻度を増やしたいものに移りやすくなるように整えておくのだ。例えば作業に必要なページをさっと開きやすくするとか。
「これをやれ」感が出てくると嫌になってくるので、「これもあるよ」くらいのメッセージがあるとよい。掃除をしたいなら掃除用具を出して見えるところに置いておく。やろうかなとなってから準備するとその間に飽きるおそれがあるので、やろうかなの瞬間にすぐ着手できるようにする。準備作業自体は何にも集中できないようなタイミングに思いついた分だけやる。頭を使わなくていいからである。
飽きていいから立ち止まらない
とにかく立ち止まらないこと、飽きによってエネルギーを失わないことが重要だろう。やることの候補をぐるぐると巡り続けること。後回しにしてはならないものを後回しにしない工夫はもちろん必要だが、基本的に「気が向く」ということに素直に従って他のものに移ることを自分に許す。移った先でも飽きるのだからどうせまた戻ってくるのである。
頑張りすぎると「今日はもうこれについてはおしまい!」という気分になってしまうのだが、それが今日取り組むべき量として十分な量に達していないと当然負債が溜まってくる。しかし頑張りすぎなければ一日に何周かしてそのことに取り組める可能性がある。つまり一度に80%なら二周目にはいかないが33%なら三周できるかもしれないのである。
ひとつひとつ順番に着実に片付けていくという美徳に馬鹿正直に囚われない。ぐるぐると高速巡回して、完了に至ったものを順番に並べていけば、実情を知らない人間からすると恰もそれらをひとつひとつ片付けたように見えるだろうし、実情はどうでもいいのだ。
こういうふうに書くと、既に自分の性質とうまく付き合えているかのようだが、全然そんなことはない。ただうまくいっている時というのは確かにあるので、その時にどうなっているかを言い表してみようと思って書いたのがこれで、どちらかというと「こうしたらいいってことなんじゃないの」と自分に提案するための記事である。実際、最近はちょっとうまくいっているなと感じてはいる。
*1: 同じような動きの繰り返しでも変化があれば耐えられる。例えば草むしりをするとすれば、草をむしる動作はずっと継続しているが、地面の状態が変わっているわけなので、それなりに長時間やっていられる。掃除なども同じ。その場合、飽きは気分ではなく身体的疲労によってもたらされる。ただし、何かを作り続けるというような「やり終えたものが積み上がっていく」系の変化は、私の中では変化とは認識できないのでそれだけでは飽きる。
*2: なお、この記事で言いたいのは「継続できない」という意味での飽きっぽさのことであり、心理的ハードルや回避傾向による「着手したくなさ」は別の話とする。