こちらの記事を読んだ。
なるほど面白い自己対話だと思い、自分にも「焦がれたもの」を問うてみることにした。
しかし、今ひとつパッとは思いつかない。「好きなもの」ならこれまで頑張ってそれなりに掘り下げてきたので、ある程度あれこれと言えるが、「焦がれたもの」となるとなかなか難しい。
最近は当てはまるものがないような気がするので遡って思い出そうとしたものの、そもそも成人以前の記憶があんまりない。精神的に不健康だったからだろう。(忘れてしまいたくなるほど何かすごく酷い目に遭っていたというわけではない。漠然と自己不在に悩まされ、漠然と鬱だった。)
今でもぼくはかつて焦がれたモノたちへの気持ちに駆動されて生きているようなところがある。
私は何を原動力にしているのだろうか。これまでも何度か自分に問うた気がするけれど、はっきりとした答えは出ていない。何らかの候補をひねり出しても、それを覚えていられない程度にぼんやりとしたものに留まっている。
強いて言うならば、「己のことを知らぬままでは死ねない」という思いがある。自分を知るということに並々ならぬ熱意がある。自分のことが好きなのかと言えば、元気よく「嫌いです!」と答えるが、好きとか嫌いとかいうこととは別に、自分自身に対して興味は強くある。(興味が強いから嫌いと断言できるのだろう。)
つまり「まだ見つけられていない自己」に焦がれているのかもしれない。というか、まだ見つけられていないところに「好きになれるかもしれない自己」がいると感じているのかもしれない。
あと、割と最近心の中で応援している人がいる。積極的に何かをしているわけではない。全部を知ろうとしているわけでもない。時々活動の様子を調べて元気に活躍していて嬉しいなと思うだけだ。
考えてみるに、それは自分を知る延長にあることのような気もする。その人が自分を映してくれるわけではないが、自分の価値観を明らかにしてくれる存在ではある。
その人という存在を人間として奇跡的だと思ってはいるが、その人を自分が知って応援していることについて運命的だとは別に思っていない。真剣に考えてはいるが熱を持って見つめているのではない。私淑と推しの間にある何か(あるいはその二点から等距離にある別の何か)という感じがするが、とりあえずそのどちらでもない。焦がれているような、いないような。
私は自分の外にある何かに強い関心を抱き続けるのがとても苦手だ。弱い関心をどうにかほそぼそと維持するか、強い関心を一瞬持つか、そのどちらかになりやすい。そして一瞬ならものすごく強く惹かれたというものであっても、波が過ぎ去るとそういうことがあったことすら思い出せなくなるので、私はいつも自分が空っぽのように感じている。
そんな中で、関心を持たずにいるわけにいかないものとして「自己」があるのかもしれない。それも、あくまで自分にとっての自己であって、外にどう「見せる」のかということには興味がない。
多分他から見たら私は正体不明な人間だろうし、私自身私が正体不明である。