副題:最強のデジタルノートツールを作ったらむしろ紙のメモが増えた件。
昨年末から開発に取り組んできた自分用デジタルノートツールがあり、まだ実装したい機能全体の七割くらいの段階ではあるが、実用に足るところまで出来上がっている。詳しくは別に書くが、一言で言うとアウトライナーとホワイトボードとScrapbox風カード型管理を一体化したツールである。アウトライナー部分のスクリーンショットはこんな感じ。
中央上部にデイリーアウトライン、中央下部に今アクティブなテーマのアウトライン(複数並んだ状態)、左にどこにも属していない思いつき用のアウトライン、右は全アウトラインの中にあるToDo等の項目のピックアップ欄(全てのアウトライン項目に任意の属性を付与することができる)になっている。
一番上の「Outline」「Board」「Database」のラジオボタンで機能を切り替えて使う。一応あらゆる粒度のメモを違和感なく収めることができて、今のところとても便利である。
そんな感じで理想的なツールができつつあるのだが、その一方で、紙に書くメモ(notノート)というのがむしろ前より増えている。
具体的にはB5またはA5の紙(向きは横長)に主にぺんてる筆で書いている。筆だが横書きだし、JavaScriptのコードなどを書くこともある。なおぺんてる筆をメモに使うようになった経緯は前にちょっと書いた(ぺんてる筆 - Noratetsu Lab Dict.)。
メモの内容や形態は様々である。絵や図を含むような、デジタルでは難しかったり面倒くさかったりするメモもあるし、デジタルでも構わないはずのほぼ文章に近いメモもある。一時的なメモもあれば当分参照し続けるメモもある。参照し続けるメモというのは、大抵メモのつもりで書いたのがノート的性格のものになったという形だ。
これまで自分に馴染むデジタルノートツールを追求してきて、自作できる範囲で叶えられるものの上限にそろそろ近づいてきた。これ以上直感的にはならない、という限界のようなものが見えてきたという感じである。Obsidianに最近追加されたCanvasやHeptabaseなどのような平面配置系の機能の強化はまだ多少進む余地はあるが、なんというか、根本的に「これ以上有機的にはならない」というようなラインが恐らくあり、それを悟ってしまったようなところがある。(VR技術が身近になればまた話は変わってくるだろう。)
どんなに直感的にしていっても、まず書き込む場を選択して、そして書き込み方を選択する、という手順のデジタル感は消えないような感じがする。たとえタブレットに手書きすることが可能としても、手元の紙と画面の中の手書きアプリは同じにはならない。そのデジタル感に自分が適応するという手はあるが、私にはどうもそれは難しく、手書きアプリでも「専用のアプリケーションを選択して、手書きという記録方法を選んでデータを入力する」という感覚が残ってしまう。他の種類のアプリケーションは尚の事である。
一方紙に書くということは、手段を選択する前の時点で既にある手段という感覚がある。紙に書くのが単語か文か、絵か図形か、といったことは個々人で分かれるにしろ、「とりあえず書き留める」ということを考えた時にパッとやれるのが「紙に書く」だろうと思う。
書き留めたいものが頭に浮かんだとして、その瞬間に如何なる記録方法が適切かが判断できればそのツールに直行できるが、そうでない場合というのが必ず出てくる。自分の考え事というのを特定の種類の仕事に限るなどすれば然るべき記録方法は絞られるにしても、自分の頭を制約なしに自由にしていると、書き留めること自体が無謀な抽象加減で何かが浮かんでくる。それをどうにか少しでも書き留めるとするならば「紙に書く」以上に適切な手段がないということがままある。
少し前までは、うまく設計すれば「手段の選択」という感覚なしにサッと書き込めるツールを作れるかもしれないと考えていたが、そんなものはない、というのがここまで自分でデジタルノートツールを作ってきての感想である。
つまり「作ろうと思えば何でも作れるはず」という前提の元にデジタルノートツールと向き合ってきた結果、かえって紙というものの普遍性と唯一無二性を感じることになったわけである。
全く別の観点からも、紙にメモを書くという動機づけが強化されている。
紙にメモを書く時(notノートを取る時)、私は意識的に筆跡を雑にして書くことにしている。自分で読むには一応支障はないが、他の人が読むとなると判別が怪しくなってくるというくらいの雑さで書いている。元々は、人の目に入った時にさらっと読まれるとなんか嫌だということから努めて(?)判読が難しくなるようにしていたのだが、最近は自分のために汚く書いている。
雑に書くために紙は必ず罫線やドットのない無地を選ぶ。要らなくなった紙の裏なんかは一層雑に書きやすい。自分が書いたものを大事にするという意味では何かの裏面の再利用というのは相応しくないのだが、自分にメモを雑に書かせるにはその方が都合が良い。
そこまで積極的に雑に書いているのは、雑な方がその記述に対して次なる思考が働きやすいという実感があるからだ。
それは「きっちり書くと加筆しづらい」ということとイコールではない。全く無関係というわけではないが、後から書き添えやすいかどうかとは別の話で、あくまで「思考が動く」ということがポイントである。
雑に書かれたものは見た目に安定感がない。完成されているという感じもないし、どうにかしたほうがいいんじゃないかという気持ちを湧かせる。書かれた内容が何らかの意味で揺るぎないものだとしても、筆跡が雑だと「もうちょっとどうにかしたほうが」という感が漂う。単に綺麗に清書するなりPCかスマホに打ち込むなりして済むこともあるが、内容自体を考え直すこともある。内容が割合しっかりしていてもそうなるのであって、内容自体が中途半端なら尚更「どうにかしたほうが」感は強まる。
言い換えると、「整ったと錯覚する」ということを防いでいるわけである。美しく記述してしまうと、もうこれでいいのかもしれないという感じがしてしまうところがある。びしっと書けてしまったことには手を入れにくい。
その点、デジタルな入力というのは綺麗過ぎるところがある。「文章」と「文章未満」の間には「どうにかしたほうが」感の差が生まれはするが、筆跡には差がなくいずれも綺麗となれば「文章未満」のものにもある程度の「整った感」は伴う感じがする。
これはフォントに工夫の余地はあるかもしれない。私は試していないが、メモ書きの領域をゆるい手書き文字フォントにするというアイデアはあり得る。ただそこまでしてデジタルで完結させたいと私は感じていないし、前述の「手段の選択」問題もあるので、今のところ紙に自分の手で書くことを選択している。
そして雑に書かれたものは、「項目」として認識しにくくなる。丸や四角ではっきり囲めば別だが、デジタルツールにおける「行」「ノード」のような「単位」を意識することは少ない。よって「項目単位で扱えてしまう」ということが減る。
デジタルツールに書いた雑なメモの扱いで困ることのひとつに、それをそのまま活かそうとしすぎてしまうことがあると感じている。メモを「最小単位にしてしまう」のである。そうできることがプラスに働くことはもちろん多いのだが、項目として存在することで個別の対象として考えすぎてしまうことがある。
これと指し示すのが難しいようなごちゃごちゃした雑なメモの集合体を、それ以上細かく整理しようとせずにぼんやり全体を眺めた時、ふと新たなアイデアが生まれる、という体験をしばしばしている。
アウトライナーに雑多に列挙した時に生まれる効果もそれと似たものだと思うし、どの程度の雑さが必要になるのかは人それぞれだろう。何も筆跡まで汚さなくとも、と感じる人も多かろうと思う。肝心なのは「意識的に雑にしてみる」という発想であり、どういう形で雑にするかはここでは些末な話である。