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2022-12-28

自分とゲーム②~RPGの話~

 小中学生だった頃は毎日のようにテレビゲームか携帯ゲーム機で遊んでいたが、大人になってからはゲーム機で遊ぶということが全く無くなってしまった。ツクール作品を何本かPCでやったことはあったが、それも大学のうちの一、二年の間だけだ。

 スマートフォンで無料のゲームをインストールしてちょっとやって飽きたらやめる、ということは続いている。しかし「ちゃんとゲームをやる」みたいなことからはしばらく離れている。今年はスマートフォンのゲームも縁遠くなっていたが、今月に入ってまたいくつかやっている。ただそれも、昔ゲーム機で遊んだような厚みのゲームではない。


 プログラミングの勉強を始めたことで、頑張れば自分で作れるのだなと思うようになった。実際、テトリス風のゲーム(→動画)やぷよぷよ風のゲーム(→動画)をゼロから作ったりした。もっと単純なところではダイアログを使ったポーカーや神経衰弱などを作ってみたりもした(ツール製作日誌:プログラミングの勉強を開始して半年の振り返り)。ゲーム開発用のライブラリを使えるようになれば本格的なゲームも作れるのだろうと思う。

 そこで、実際挑むかはともかくとしてもし自由にゲームを作れるならどういうゲームがほしいかなと考えてみた。つまり自分が本当に面白いと思うゲームは何か、ということだ。自分で作って自分で遊ぶならば、「この先に何が待ってるんだろう」というワクワク感には頼れない。「やっていて楽しい」ということの純度の高さにかかっている。しかし「新たな情報が手に入る」「グラフィックが美麗」以外の純粋なゲーム性を考えるとあんまり思いつかない。

 これまでスマホゲームを次々とインストールしてはそこそこで(10分~二、三ヶ月くらいで)飽きてアンインストールしてを繰り返していたのは、「そもそも楽しいのは最初のうちだけ」ということもあるが、一番は「自分が本当にハマれるゲームはどこかにないだろうか」という気持ちによるものだった。「最初のうちだけ」を突破したのはフリーセルとイラストロジックくらいで、フリーセルの方はインストールしてあると無限にやるから自分を守るために今は入れていないほどなのだが、なんかこう、そうではなく、トランプとペンシルパズル以外の領域で何かないだろうかと思い続けている。

 本当に自分がハマれるゲームというのはあるのだろうか? というか、そもそも自分はゲームというものが好きなのだろうか? 小説や映画の代替として「物語を摂取するもの」として使っているだけなのではないか。そんなことを考え始めて、いっときスマホゲームを全部やめてしまった。「自分が本当にハマれるゲームはどこかにないだろうか」という願いが叶わない気がしてきたからだ。

 今月に入って一周回って「気晴らしなんだし、楽しい部分だけ齧っていこう」という気持ちになってまたいくつかインストールして遊んでいるが、代わりに「自分が本当に面白いと思うゲームを作れるだろうか」と考える気持ちは萎んでしまった。プログラミングのスキル向上のために作れそうなものを作ってみる、ということで満足することにしようと思う。


 この一連の検討を通して、そもそも自分にとってゲームとは何だろうか、ということを考えることになった。今回のことは、自分でも作れる可能性が生まれたということを発端に、自分で作って自分で遊ぶことに意味のあるタイプのゲームの中で面白いと思えるゲーム性とはなんなのか、ということを考えていった。つまり、ゲームを進めていくことで謎が明かされていくような物語性については敢えて無視している。グラフィックと音楽についても同様で、自分で用意するなら何も驚きはないので無視して考えている。

 しかし、自分が子どもの頃に熱心にやっていたゲームはどんなものかと言えば、ほぼRPGである。つまり出来事の全貌を知らない主人公として、強敵に挑みながら(強敵を倒すこと自体は特に快感ではなかったが)、次第に明かされる情報に「なんだってー!」とか思いつつ、グラフィックの美しさや面白さ、雰囲気を演出する音楽の絶妙さを味わっていたのだ。

 正直、子どもの時分では大人が作ったストーリーを全部は理解できなかったし、始めてからラスボスを倒すまでに相当な時間がかかっていたりして流れを覚えてもいられなかった。でも「雰囲気」は自分の脳に深く刻み込まれている。グラフィックと音楽と言葉遣いが自分に染み込んでいるのだ。


 考えてみるに、ある文脈に沿って視覚・聴覚・言語の要素をインストールするということは、感性を養うこととほぼイコールではないかと思う。まあ「養う」が多少オーバーだとしても、「これがすごくいい」と感じることが自分の美意識の解像度を上げるのは確かだろう。どれかの要素をひとつずつ取り込んでもいいが、テレビゲームはそれらを併せて摂取できるところに強みがあると感じている。物語性自体の摂取も大事だったとは思うが、それを形作っていた演出部分が私にとっては重要だったろうと思う。

 自分の内側に自分の感性に基づいて自分なりの世界を作るということ。ゲームを成り立たせている要素の総合的な摂取は、自分にとってその工程の手がかりになった。私にとって自分の内面の世界のイメージはある程度グラフィカルで音楽がバックに伴い、語彙は単に辞書的意味ではなく語彙それぞれの印象・響きが存在感を持って世界を構成している。あくまで私という人間の感性が反映されたものであって、別にゲーム的・ファンタジー的な様相を呈しているというわけではないが、構築のされ方はRPG的なのだと思う。(逆に自分の世界の構成要素として弱いのが、人間の顔・表情のイメージとか、自分が体を動かすというような身体的イメージである。)

 このように子ども時代の私にとってテレビゲームのRPGというのは非常に大きな意味を持っていた。しかし子どもの頃に総合的な摂取をしていた、ということが重要であって、今はもう総合的にやる必要は感じていない。自分の内側の世界の作り方はわかったので後はそれぞれの要素をそれぞれ集めていけばいい、という感じだ。だからもう私はRPGをやらなくていいのだと思う。やればそれはそれである程度楽しいだろうとは思うが、今はそんなにやりたいと感じないし、スマホゲームでは途中でやめてしまったものが割とある。


 私にとってゲームとは何か。子どもの私にとっては「世界を作るもの」だった。そしてここでは語らないが途中で「現実から逃避するもの」になった期間があって、その後自分の性質に基づいての「熱中できるもの」として思い描いていた。どこかに「心底熱中できる、し続けられる何か」があるのではないかと思っていたが、そういうものはないかもしれないという結論が出かかっているというのが記事の前半に書いたことだ。

 今の私にとっては何だろうか。何かしらのゲームが常に自分の生活の中にはあったが(毎日長時間やっていたという意味ではない)、実はゲーム性というもの自体に然程興味がないのかもしれない。つまり「私にピタリと合うゲーム性」みたいなものはそもそも存在しない可能性がある。

 ゲームについて今楽しいと思うポイントがどこにあるかを素直に言えば、「このゲームがどんなものであるかを理解するまでの過程」だと思う。理解した後にそれをやり続けたいのかというと、正直それはそうでもない。「なるほど、ここが醍醐味のゲームか」と感じる瞬間が楽しさの頂点であり、知った後は快の度合いは急激に低減する。例外として、短い間隔かつある程度の手間がかかる形で報酬を得られるタイプのものは「よし次のこれできた」という快を得たさにやり続けることもあるが、そのパターンは稀である。

 となると私がゲームを通して得たいのは、「ゲームの中に込められた工夫を知る」ということであり、自分がそれをプレイすること自体はどうでもいいのかもしれない。それが私の快の核ならば、それを求めてあれこれやるのだと割り切っていいのではとも思える。

 ゲームにはハマらなければならない、という謎の意識があるような気もする。ハマらなければ面白いと言えない、みたいな。一日でやめたけど面白かった、とかいう感想が理解されるとは思えず、なんとなく後ろめたさが漂っている。

 でも、私にとっての真実は「一日でやめたけど面白かった」であって、それはそれでいいのでは、という気がしてきた。