自分は表現のコントロールが下手だと感じている。表現の技術がどうというより、表現の場所や頻度、タイミングの選択に常に不満がある。どうにかしたいので、少し考えていくことにする。
ここでの「表現」を定義すると、「自分の思考に発生したものを形にして出力すること」を指している。文字でないものも含むが、今のところ専ら文章での表現を選択しているので、基本的に「文をいつどこに書くか」という話になる。
他の人たちは自分がどこかに何かを書き込む・投稿するということに納得しているように見えるのだが(多分、そう見えるだけなのだろうとは思う)、私はどうも納得できていない。ブログにもSNSにもごちゃごちゃ書いている割に、そうやって書いて投稿しているということ自体に不本意感を覚えている。
大雑把に言うと、「これ言わなくても良かったな」と思うことが多い。書きたかったから書いた、ということが前提にあるわけだが、後からものさしを当て直した時に、「書く必要があるものではなかった」という評価が下される。
しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。強いて言えば、Twitterを告知の場所と位置づけたなら、ブログの投稿なんかをしたらTwitterにポストする必要があるな、とは言えるが、表現行為という面では「必要」では測ることができないだろう。しかし反省をするとなると「必要なかった」が出てくる。じゃあどこまでなら良しとなるのかは曖昧である。多分、無意識下で他の尺度で測った結果納得できていないから、身も蓋もない「必要なかった」という結論に至るのだろうと思う。
TPO的な観点で「適切でないかもしれない」と感じることもある。しかも、個別の投稿の是非に留まらず、「そもそもTwitterでこういう話をするのはどうなのか」みたいな規模でそう感じる。じゃあTwitterではどういう話をすべきなのかはこれまた曖昧だ。他の人々と照らしてみても、各々好き勝手にやっているわけで、あらゆるやり方が「あり得る」ことになる。
適切かどうかは「場所」「公開の度合い」「頻度」「タイミング」といったものの如何で判断しようとするわけだが、それらを適切に選択しようというところまでは考えても、どう選択するのが正解か(自分が納得できるか)ははっきりしないので、考えたところで不満は抱いたままになる。
曖昧さの一因として、自分が「一般人」であるということがある。芸能人でも作家でもないし、他の何らかの職業を看板にしているわけでもない。むしろ明らかにしないことを貫くつもりでいるので、純然たる「個」「私」である。何も代表しないし、何も背景に持たない。となると、その分基準にできるものもないということになる。自由過ぎて、引くべきラインが「人として」というところまで広くなる。それは本当に最低限のラインだが、それ以上は客観的な根拠なしに決めなくてはならない。
多分、「どういうアカウントにするのか」ということをデザインする視点が必要なのだろう。
もうひとつ原因を挙げると、結局のところ何を求めて投稿するのか、が常に曖昧だという問題もある。
頭に浮かんだものを表現して投稿するという時、その結果がどこに着地してほしいかというのはその都度結構違っている。
- 言語化できればいい
- 自分以外の誰かの視界に入ればいい
- 誰かが反応してくれればいい(「いいね」を含む)
- 誰かに共感してもらえればいい
- なるべくちゃんと理解してもらいたい(誤解は避けたい)
例えばTwitterはその点色々都合がよく、「言語化しやすい」「人の視界に入りやすい」「反応を得やすい」というメリットがある。共感や理解を得ようとするなら言葉を工夫しつついくつもツイートを重ねる必要が生じるが、何しろ読まれやすいし返信もしやすいことから、他の媒体より楽なのは確かだ。
共感を得るには友人や家族などに話したほうが確実だが、前提を相手と共有できていない内容だとその説明からスタートしなければならず、それを省略して「誰かがわかればいい」というふうにしてしまえるTwitterは非常に簡単な感じがある。
つまり自分の希望を広くカバーし得るのがTwitterなので、「とりあえず」「なんとなく」Twitterに投稿する、みたいなことになる。ただ、Twitterは広くカバーし得る代わりに得られるものは薄いので、Twitterによって自分を満たすというのは難しい。それに、自分が得たいものがその都度違っているなんてことは、基本的に読み手にとっては知ったことではないわけで、自分は楽だが読み手は必ずしも楽ではないというところがある。結局はかなりの部分「空気を読む」ということに支えられている。そうなるといずれ疲れてくると思う。自分は投稿者であると同時に読み手であり、自分が他に要求した分は自分も他に対して満たそうとせざるを得ない(意識的にも無意識的にも)。
どこに着地したいのかに応じて表現スタイルを変えていくべきだろうと思うが、いつも「どうしたいのか」という自分の気持ちを自分に問うより先に思考の言語化が完了してしまうので、言語化できてしまった以上はつい投稿しやすいところに投稿してしまうという流れになっている。Twitterサイズで言語化した時、そこでツイートしなかったなら後で形を整えて記事化しなくてはならないが、それが面倒くさいと思うとそこでツイートしてしまう。「投稿先としてTwitterが相応しいからツイートした」のではなく、「それ以上手間をかけるのが億劫だからツイートした」になるわけである。そうなると後から不本意に思えてきて当然だろう。
あるいは、不安が高まっているような心境の時は少しでも早く他者の反応を見たい(もしくは誰かに自分の状態を知らせたい)ということもある。表現として最善手かどうかよりも、読まれやすさ、反応の得やすさで判断してしまう。それが必ず駄目だということではないが、メンタルの状態が変わった時点で「あの投稿は自分で納得できるものではなかった」ということになる場合がある。
たとえ「言うべきでないことを言った」という直接的な後悔はなかったとしても(それがある時ももちろんある)、「こういう形でない方が良かった」と感じる可能性が生じる。困ったことに、投稿している間は理屈でやっているつもりでいて、自分が感情的に慰められることを求めている自覚はない場合が多々ある。そうなると、読んでくれる誰かにとって必要な情報以上のものをぐだぐだ書き連ねることになって、「無意味に長文を書いてしまった……」などと反省することになる。
面倒臭さ由来にしろ不安由来にしろ、言語化をスタートした時点で着地点が曖昧過ぎることが不本意なアウトプットを生じているように思う。着地点によって言語化の種類は変わってしまうし、一度言語化したものを別の種類に改めることは思いの外大変である。というか、ものすごく面倒くさく感じられる。
つまり、思考を流し始める入口を適切に選択することが非常に重要なのだろう。私の場合「Twitterに流しやすいサイズ感」で言語化するのがデフォルトになってしまっており、そうしてしまってから記事に直そうとかアトミックに整理し直そうとかいうことをやっている。面倒臭いので、大抵はそのままツイートしてしまうか、ツイートの下書きとしてごちゃごちゃ堆積することになる。
となると、最初の一歩の時点でさっと選択できるテンプレートの数を増やすことが必要な感じがする(テンプレートというのは比喩で、「表現形態のイメージ」みたいな意味である)。そのテンプレートと投稿場所、頻度、タイミング等は必然的に結びつくだろうし、傾向がはっきりすれば「どういうアカウントにするのか」が明らかになる気もする。
今までは、表現して投稿するという行為を制御するにあたっては「ぐっと堪えて」的な精神論を思い浮かべていたが(そしてそれはなんにも役に立ってこなかった)、予め何を用意しておくべきなのかを考えることでもうちょっと現実的に自分を律することが可能になるかもしれない。