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2022-10-09

ツールを「使いこなす」という余計な構え

 一ヶ月ほど前に、最近Scrapboxを自然に使えるようになったという記事を書いた。(「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox

 今回は、要するに何が私を邪魔していたのか、ということについて考えようと思う。


 Scrapboxに限らず、色々と魅力的な機能を持つ「良さげな」ツールを目の前にした時に私の中で発生するのが、「このツールをどう活かそうか」という気持ちである。

 そのツールならではの特徴を掴み、今までは実現できなかったけどこのツールならできそうなことをあれこれ想像し、生活が一新されることを願っている。そうしている時というのはわくわくと胸躍り、まだ何もしていないし何も得ていないしその後も何も欲を満たすものを得られるでもないのに、なんだかすごく色鮮やかな時間を過ごしているような気分になる。それは悪いことではないと思う。

 そう期待を抱くことは悪いことではないが、しかし「それならでは」にこだわるというのは、つまりそのツールを「それならでは」縛りで使うということでもある。「他のツールでできるならこれでやる必要ないのだし」などと言って、なんとしても「他のツールではできないこと・やりにくいこと」をやろうとする。もちろんその気持ちにはっきりした自覚はなく、後からそうだったとわかるのが常である。

 多機能で何にでも対応しうるツールとなれば、それを活かして何にでも対応させようとしてしまう。「こうすればあれにも使える」「ああすればこれにも使える」と考えて、全部ひとつに放り込もうとする。「このツールでもやれる」という可能性を「しかしやらない」と切り捨てるのはなかなか難しかったりする。


 そもそもは、自分の中に何らかの必要があって、それを実現するためにツールを欲していたはずである。ならば、その必要を満たしさえすれば、本当はもうそれでいいはずなのだ。他にどれだけ機能を搭載していようが、それをうまく使いこなさなければならない義務はない。せっかくの優秀さを活かしてやれなくても、別に全然構わないのである。自分には必要ないのだから。

 これがツールではなく人間なら話は別である。使っている人間を十分に活かしてやらないのは、その相手も人生のある主体であるがゆえに問題が生じうる。でもツールは主体ではない。使いこなそうがこなすまいが、ツールは何も損をしないし(主体ではないのだから)、製作者も別に困らない。製作者は私がそのツールをどう使っているかなど知る由もないのだ。


 以前、手帳の使用例を特集した雑誌を読んでいて、誰の手帳だったかはもうわからないが、わざわざ日付の入った手帳を選んでおきながらそれを一切無視して使っている例を見た。まずその紙面に書き込んだタイミングというのがその日付の範囲と全く合っていなかったし、一応スケジュールの類を書くことが想定された横罫のページだったかと思うが、そこに縦線をフリーハンドで書き足して日付とは全然関係のない何かの表にして使っていた。

 何かが印刷されていればそれをどう活かそうか考えてしまう私にとっては衝撃も衝撃の使い方だったのだが、まあ確かに、そう「しなければならない」というルールなどどこにもない。印刷があろうがなかろうが関係ないのである。他に気に入った要素があって(あるいは誰かに貰うなどして)その手帳を選択し、そしてその手帳の紙面にはたまたま自分には不要な印刷が施されており、だからそれは無視する、それでいいのだ。


 一時期、紙のノートの罫線を憎らしく感じて、敢えて無視して(というか、敢えて「反して」)使っていたことがある。別にノートが「私のガイドに沿いなさい」などと命令してくるわけではないのだが、私の中の規範意識が私より罫線を優先するので、それが心底気に入らなかったのである。

 自分自身に腹を立てた結果、私の中にある「こう罫線があったら普通こう使う」という「常識」を破り捨てるべく、しばらく目茶苦茶に書いていた。それでもおそらく然程の奇抜さではなかっただろうが、紙のノートについてはその時点で割と心理的解決を見た。今は、そもそもノートをあまり使っていないこともあるが、ちゃんと使おうとかいう意識とは距離を置いている。


 しかしである。そういう格闘を経たにもかかわらず、デジタルツールではまーた同じことを繰り返したわけだ。

 デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、アナログに軸がある人間からするとデジタルは意識的に選択されたものであろう)。そうすると、「せっかくデジタルのツールなんだし」という意識が働く。その意識は必要なものでもあるのだが、しかし油断すると「デジタルであることを最大限活かさねば」という意識に知らず支配されていたりする。

 つまり、検索のしやすさやリンクの張り方にこだわったり、表記揺れを撲滅したくなったり、データベースとして相応しいデータの在り方に近づけようとしたり、そういった意識が恰も当たり前のこととしてツールの使い方に入り込んでくるのだ。

 その意識は、自覚して制御できていればこそ快適なデジタルライフに貢献するが、無意識下で乗っ取られてしまっているとひとりの人間が現実的にやっていける範囲を超えて「きちんとデータを整える」ことを自分に求めることにもなり、便利なツールのはずが「理想の形で運用できていない」として苦しめられることになる。

 一体私は何をしたくてそのツールを使い始めたのだったか?


 さて、ツールを自作することを勧めたくて書くのではないが、デジタルノートツールを色々作ってみて変わったことというのは書き留めておきたい。

 冒頭に示した過去記事でも書いたが、私はデジタルノートツールとして、用途に合わせて複数のツールを作っている。現在アクティブに使っているものだけでも8つあるだろうか。それぞれ特定の用途に特化しているので、汎用性は無い。つまり「うまく使う」という尺度は存在しない。できることは限られており、それしかできないのだから、「使う」か「使わない」かの二択しかないのである。

 「うまく使う」という概念が無い代わりに、「うまく作る」ということは必要になる。そして「うまく作る」というのは、自分のために作るものである限り、「仔細に亘り自分の要求にフィットしたもの」を作るということになる。実現したい動きというのがまずあり、それを再現するのである。

 そうして作った時、その事前の想像を超えた活用法というのは基本的には生まれない。「このツールで何ができるかな」とわくわくと空想することはないわけである。

 つまり何が起きたかというと、使いこなすものというのが「ツール」から「プログラミング言語」にスライドすることで、ツールを使いこなさねばという気持ちは自然と消滅した、ということになる。


 その後Scrapboxに戻ってきた時、以前はあれほど「Scrapboxらしさを活かしてやろう」などと考えていたのが(そうだったというのは後から気づいたことである)、全然そういった熱意が湧かなくなっていた。まあとりあえずここに書いとくか、という感じである。リンクも張ったり張らなかったり。UserCSSにも前ほどは執着していない。

 内容面でも、「分類の力によってワンアクションで的確に取り出したい」と感じるような情報は全部自作のデジタルノートツールに移ったことで、Scrapboxは「探そうと思えば探し出せるもの」、つまり「一瞬で取り出せることを保証しなくていいもの」の置き場所へと変化した。

 一瞬で確実に取り出せるということを保証しなくていいなら、細かくルールを決めてタグを用意するというようなことはしなくていい。何も覚えておく必要はなく、その時の気分で使っていいことになる。つまりテキトーである。そもそもそういうふうに使って成立することがScrapboxの売りだったような気がするし、最初からそのように使っている人からすれば「どうしてそうおかしな回り道を…?」と首を傾げてしまうところかもしれない。


 まあ具体的にScrapboxというツールをどう捉えているかはここではどうでもいいことである。どのツールに対しても「そのツールならでは」を掴んで活かそうと考える癖が自分にはあり、しばしばそれによって自分を迷走させているという構図が問題だ。

 そこから抜け出すには、意思の力に頼るのではなく根本的に違う構造に沿うことが必要だったのだろうし、それがデジタルノートツールの自作を通して知らず知らずのうちに達成されていたのだ。紙のノートの時は意識的に荒療治を施したわけだが、デジタルツールに関して自分を縛っていたのは「罫線」のような単純明快な規範とは違ってもっとメタなレベルのものであったことから、仮に自覚があっても紙のノートでやったようにはできなかっただろうと思う。


 それでは新たなツールに夢見る気持ちもなくなってしまったのだろうか?

 半分はそうで、半分はそうではない。「私の生活を変えてくれるかもしれない」というような期待を抱くことはなくなった。このツールをこう使えばこんな理想の形になるかもと夢想しても、そしてそれが正しい想像だとしても、「こう使えば」の部分に無理があるのはもう解っている。自分の期待に、(ツールではなく)自分が応えられないのである。

 代わりに、新しく登場したツールを見た時、既に自覚している自分の要求に照らして「あ、この発想をこう借りればあれが実現できるかもしれない」ということを考えるようになった。ツール全体に何かを期待するのではなく、新たなツールが新たに示した機能の核にあるアイデアを取り出して転用することを検討するようになったのである。それはそれでわくわくした気持ちになる。

 しかし転用とは言っても、自分のツールに取り入れるならその機能は自分で一からコードを書いて作らなくてはならないので(何しろ新しいツールが具体的にどういうプログラムで動いているかは全然わからないのである)、かつてEvernoteを使うにあたり失敗したような「安易に真似をする」ということはできない。既に作った機能との兼ね合いも踏まえて、よくよく考えて組み込まなくてはならない。実装のためには勉強も要る。そうなると、必然的に「その場の思いつきで自分が振り回される」ということもなくなっていく。思いついてから実現するまでにそれなりの時間と労力が必要になるからだ。


 一連の変化を一言でいうと、「落ち着いた」ということなのかもしれない。自分の閃きや期待が自分をブンブン振り回すことが随分減った。中心にあるのはツールではなく自分自身であり、ツールは道具としての相応のサイズ感になって自分の周りに存在している。必要な時に必要なだけ使えばいい。

 なんとも当たり前の話だが、ここに来るまでに呆れるほどの年月を費やしてしまった。まあ、それでも落ち着きを得るということができたのだから御の字というものだろう(本来の意味での「御の字」である)。