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2022-10-10

「何が言いたいのか分からない」ということ

 「何が言いたいのか分からない」と言われることがある、ということを吐露した投稿およびそれに同意するレスポンスを拝読した。(どなたのどの投稿かということは、明らかにした方がいいかどうか判断できなかったので、とりあえず書かないでおくことにする。)


 私も子供の頃言われたことがあったな、ということを思い出した。転校する同級生に気持ちを伝えるために書いたものについてそう言われて、結構悲しかったのでよく覚えている。それでは伝わらないという現実も悲しかったが、自分が迷惑な人間になってしまう可能性に気づいたことの方が恐ろしくて凍りついたように思う。(実際迷惑なのかどうかは別として。大して迷惑ではないような気もする。)

 でも自分自身もその頃何が言いたくて書いたり喋ったりしていたのか正直分かっていなかったので、それはまあそうだよなあとも思った。

 ここから先、私は私自身の体験と反省を言語化すべく書いていくけれども、その性質上、同様の心当たりがある人にぐさぐさ刺さってしまう箇所があるかもしれないので、お読みくださる方はその点ご了解の上この先に進んでいただきたく。(そういうタイプの文章なので、別所ではなく自分のブログに書くことにした。)

 なお、私がそう言われた理由と他の人がそう言われた理由は一致しないかもしれないし、あれこれアイデアはあれど、何らかの正解を提示しようとかいうことを考えてのものではない。


 子供の頃の私がしたその体験の原因はと言えば、大きく分けて次の二つであろうと思う。

  • 抽象的な話をしようとした
  • 自分の中にあるものを厳密に伝えようとした

 どうしてこれがまずいのかと言えば、今考えるに簡単なことで、「普通は抽象的な話を聞く用意などない」かつ「個々人の内面の厳密さなど本人以外には大体どうでもいい」からだ。親なら、教師なら、友達なら、自分のこの「表現したさ」を受け止めて欲しい、と素朴に思うのだが、しかし現実は厳しい。そうしてくれる人もいるけれど、どういう関係性だろうがそういうことはできないという人もたくさんいる。一応は全部聞いてくれるけどこちらが思うほど重要な話とは捉えてくれない、ということもよくある。


 そもそもコミュニケーションとは何なのか、ということの認識に相手と差があると、「何が言いたいのか分からない」という悲劇の発生頻度が高まることは必至だろう。一般的なコミュニケーションがどうなっているかを自分なりに考えてみると、次の要素によって成り立っているように見える(勉強不足で引用してこれないが、ちゃんとした研究は数多なされているはずである)。

  • 相手(=仲間)にとって有用な情報を共有する
  • 既に親しい人間同士、または親しくなる気がある者同士の絆を深める、あるいは確認する
  • 相手(=仲間かもしれないし敵かもしれない)との間の線引きを明らかにする
  • 相手または自分たちの生活を決めているメタな概念の軌道修正を試みる

 最後だけ妙に持って回った言い方になってしまったが、要は「政治」とか「ルール」とかについて話すみたいなことだ。社会を維持するための利害の調整が主になるだろうが、もっと広い範囲を含めたいのでこういう言い方になっている。

 何も意味のないような会話でも、それが楽しくてウエーイとかやっているのだとすれば、それは親しい人間同士の絆のためのものである。一方、そんな中にも「集団内の立ち位置を確認させる」というような冷たいやり取りが混ざっており、それは線引きを明らかにすることであると私は認識している。

 敢えて含めなかったのが「相手の内面を理解する」ということだ。なぜかというと、それは自然には行われていないように思えるからである。社会形態上必要が生じてしまうからやる羽目になっているのであって、やらなくていいならやらない、というスタンスの方が現実的には多いように見受けられる。自分語りを聞かされてうんざりするのは、そのタイミングでその相手の内面を理解したいだなんて思っていないからだ。もちろん特別相手のことを好きだとか愛しているだとか推しているだとかなら別だが、それは「一般的なコミュニケーション」からはちょっと外れているように思う。(親が子を愛するのが下手な時、あるいは親同士が愛し合うのが下手な時、ここに子にとっての不幸がある。)

 あくまで一個人の持論に過ぎないが、上に挙げた要素に共通するのは、「何かを変えるためにする」ということだと思う。「認識を変更する」という狭い意味ではなく、「思い出させる」とか「強化する」とかいうことも含めての「変える」である。何がどう変わるためのコミュニケーションなのかが相互に明らかな時、コミュニケーションが自然と成り立っているように思う。逆に、何をどう変えたくて言っているのかが曖昧な時、言われた側は「このコミュニケーションを通して私にどうしてほしいのだろう?」と思って困惑することになるのではないか。よって自分がしたい話の内容が上述の「自然なコミュニケーション」のパターンから逸脱している時、おそらく事前の断りが必要になる。

 私の「抽象的な話をしようとした」「自分の中にあるものを厳密に伝えようとした」という失敗は、そもそも理解が困難な内容だった上に、相手にとって「何が変わって欲しいのか」が不明瞭であり、そのコミュニケーションの意義自体が謎なものになってしまっていた。せめて「今から私の中にある抽象的な概念の話をするからそれをちょっと覚えておいて欲しい」というような要求を予め示していたなら、なるほど覚えておいて欲しいのかと思って聞いて(あるいは読んで)もらえる可能性も生まれたと思う。その時相手がすべきことは「覚えておく」ことだというのが了解されるからだ。(もちろん性格や関係性によっては拒否されることもある。)


 必然的に、相手を変えたくないと思いながら話す人は「何が言いたいのか分からない」の発生率が上がるようにも思う。自分は自分の思いを言葉にしたいだけで、相手に影響を与えたいわけではないのです、となると、相手を変えなさすぎて、「何が言いたいのか分からない」に陥ってしまう。そうなった時、相手を変えたくないという謙虚さが邪魔をして、相手にとっては「この時間を使って自分は何を伝えられたのか?」と戸惑うことになる。誰しも自分の時間や思考を有意義に使いたいだろうし、このズレは対人関係上の負の影響を生じかねない。そう考えると、コミュニケーションとは相手を変えることだ、と割り切ったほうがよさそうな感じがする。

 例えば自己主張が強い人間の「言いたいこと」が明瞭なのは、一言で言えば他者に要求しているからであろう。「お前が、こう変われ」というメッセージがはっきりしている。その言い分が理不尽で目茶苦茶でも、要求は明確だから「何が言いたいのか」ということにはならない。他方、厭味ったらしく婉曲に何かを言う人間がいる時に「何が言いたいんだ!」と腹が立つ場合があるが、それはその人間が自分に何かを要求しているということは明らかに分かるものの「どう変わることを要求しているのか」がぼかされていることへの苛立ちだろう。


 ところで、「何が言いたいのか分からない」と「何を言っているのか分からない」は、似ているが少し違うかもしれない。多分混ざった状態で使われているので、どちらを言われたからどうということではないのだが、「何を言っているのか(=意味)は分からなくはないが、何が言いたいのか(=意図)は分からない」というパターンも存在するであろうことは気に留めておいた方が良さそうだ。

 考えてみるに、「何が言いたいのか分からない」とは言われたことのない人々が、じゃあ「何を言っているのか分かる」ように話すことができているのかというと、それは到底そうだとは思われない。でも、何を言っているのか分からなくても、何がしたくてそう言っているかが分かれば、相手にとっては「何が言いたいのか分からない」ということにはならないのである。

 「何が言いたいのか分からない」と言われた時に「何を言っているのか」の解像度を頑張って上げようとしてしまうケースをたまに見かけるが、相手が分かりたいのは「何を言っているのか(意味)」ではなく「何が言いたいのか(意図)」の方なので、多分「解像度」はいくら上げても功を奏さないだろうと思う。

 逆に自分が頑張るのではなく、「何がしたくてそう言っているのか」を察知するのが得意な人を選んで話せば、誰でも「何が言いたいのか分からない」から脱することができる。あるいは、「何がしたくてそう言っているのか」を分かるまで辛抱してくれる人と話せば、「何が言いたいのか分からない」などと匙を投げられることはなくなる。


 何か記事的なものを書いて発表した時に発生するパターンも考えてみる。

 読み手は書かれたものをいつも理解できるわけではないが、書き手に対して「なんだこりゃ?」と不満を抱く場合と、全然そうはならない場合とがある。つまり「何が書いてあるのか」が分かるかどうかは、「何が言いたいのか分からない」という感想を持つかどうかとは然程関係がないような気がする。

 文章の場合もやはり、それを読む前と読んだ後で読み手に変化があるかどうかにかかっていると思う。話が動くかどうかも大事だが、読み手をどこかに運べるかどうかが重要なのである。本当は何が書いてあったのか分からなくとも、読み手が自分の中に変化を感じれば「何が言いたいのか分からない」という感想にはあまり至らないように思う。

 文章を読んだ読み手が、書き手が自分に何を要求していたのか感じ取れなかった時、その責任が書き手にありそうだと思えば「何が言いたいのか」と責めることになるだろう。一方、「多分書き手はちゃんと書いているけど自分が読めていないから分からないのだ」と思えば、書き手を責めるようなことにはならない。自分が分かるまで読み直そう、となる。

 同じ文章を読んでも読み手の感想に差が出るのはこの線引きが読み手それぞれで違うからだろうと思う。そしてある程度は書き手の側がコントロールすることができる。そう単純なことではないと思うが、例えば自信なさげに書けば書き手のせいになりがちだし、堂々としていればそうなりにくいように思う。

 あと感想を伝えるという時などは、「私はこういうことを考えました」だとそれが相手との意気投合に繋がらなかった時には「はあ、そうですか(それで私はどうすれば?)」になりかねないが、同じことを書いても「こういうことを考えるきっかけをくれてありがとうございました」と結べば相手は「いえいえ、お役に立てたようで良かったです」と返すことができる。考えた内容に対して反応する必要がなくなるからだ。相手と意気投合できる確信がない時、あるいはそうならないことを分かっていつつも感動を伝えたい時などに有効なやり方だと思っている。(なおこれは相手に直接文章を送るような場合の話であって、ブログなどで誰かの投稿を自分の場に引用して自分の話をする場合は「私はこういうことを考えた」だけで構わないと思う。)


 私自身、今現在は「何が言いたいのか」を伝えることにはあまり困っていないが、二十歳過ぎくらいまでは全然駄目だったように思う。相手との自然なコミュニケーションとして相応しくないメタな領域の思考ばかりがぐるぐる回っていて、それを伝える術が分からなかったし、伝えようとして通じなかったということもあった。相手に要求するということ自体が下手過ぎて、自分が他者に対してどうして欲しいのかを自分で認識することも難しかった。それゆえひとつひとつ改善の手を打つということができず、不満が溜まり続けて急に爆発して自分も周りも困り果てるということもあった。(この記事を書き始めるまでその出来事がこの話と関係するとは思っていなかったが、ここまで書いてきて、あれはこのせいだったなと思い至った。)

 その後少しずつトレーニングを積んで今に至るが、それについてはまた機会があれば書きたいと思う。続けて書くかもしれないし、しばらく後になるかもしれない。