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2022-10-07

エッセイ集団という夢想

 うちあわせCast第百十四回を拝聴した。テーマは「面白い記事とは何かについて」。


 主題の「面白い記事とは何か」ということについては、持論はまああるもののあまり語ってもしょうがない感じがするので言及は避けることにして、今回はブログビジネスへの夢想を書くことにする。

 うちあわせCastを聴く限り、Tak.さんも倉下さんもほぼ同じイメージの記事(Tak.さん曰く「個人の総合的な表現」)を「読みたい」と思っていらっしゃるようで、多分私が読みたいのもそういうものだろうと思う。で、わざわざ欲するということは、そういうふうに書いている人がもう少ないし、更に「面白く」書ける人となったらもっと僅かだということだと思う。端的に言って、レアなはずである。(自分にはからきし商才がないのでわからないが、小規模でも確かな需要があってある程度レアなら何かしら商売にならないはずがないのでは、というのが素人の素朴な感想である。)

 多分そういう内容を十分な質で書いている人の数というのは実際にはある程度いると思うが、出会える可能性がなさすぎるのでレアな存在にならざるを得ない。こういう内容に対してジャンル名が存在していればそれで検索して探すということも可能だが、現状そうではないので、どこをどう通ればそういう存在に行き着くのかがわからない。自分の周辺に限って言えばかろうじて「知的生産」が合言葉として働いているが、その四文字では接続し得ない人というのがたくさんいるはずである。

 商売にならないはずはないとは思いつつも、うちあわせCastの中で倉下さんは「個人の総合的なブログでブログビジネスっていうのは多分無理かな」と仰っており、それはまあ、現状そうだろうなと私も思っている。自分の記事を面白いと思ってもらえることはあっても、直接的にビジネスにするのはほぼ無理であることは明らかである。アフィリエイトが無理なのは当然だが、内容に価値を持たせること自体が困難だ。

 なぜか? 私が無名だからである。



 ところで、誰でも知っているレベルで有名なYouTuberとしてQuizKnockというグループがある。

 個人的にYouTube自体にあまり興味がないため動画はほとんど見たことがないが、食事時のテレビ番組に出ているのを見かけただけでも六、七人の顔と名前は覚えてしまった。どの人も感じが良いので、素朴に応援の気持ちを持って見ている。

 QuizKnockが軌道に乗れたのは、(コンセプトの良さや戦略の巧みさが核にあるにせよ)伊沢拓司氏が築き上げた自身のネームバリューによるところが大きいのではないかと思うが、それによって、今ではQuizKnockというグループ名にネームバリューがついている。伊沢拓司氏の存在を借りなくても、「QuizKnockの○○です」と言えば「おお、あのQuizKnockの」となる。

 「QuizKnockの○○です」と言って登場してくる人々をほほうと思って眺めてみると、自然とそれぞれのキャラクターを覚えようとするわけだが、じゃあそれぞれがもし肩書なしにただ「高学歴でクイズが強い人」というだけで出てきたらどうだったかというと、まあ多分ほとんど覚えられなかっただろうと思う。そういう出方の場合、いち視聴者からすると番組が気まぐれに呼んできたぽっと出の「ちょっと賢い若者」でしかないからだ。個性に変わりはないのに、視聴者の中での存在感は多分全く違ったものになる。

 なぜQuizKnockと名乗れば覚えられるかと言えば、QuizKnockという名前に「信頼」があるからだろう。私個人としては別にQuizKnockを殊更素晴らしいと思っているわけではないのだが(素晴らしいものじゃないと思っているという意味ではなく、そう崇めるほどよく知らないのである)、それでも、伊沢拓司という人の人間性は既に知っており、そしてその後QuizKnockの一員として出てきた人たちの雰囲気の傾向から判断するに、「安心して見ていていい人たちだ」と私は学習している。私の中では「安心して見ていられる」という時点で価値があるので(何しろほとんどがそうではない)、QuizKnockは信頼に足る存在である。

 所属しているライターの一覧を見ると、結構な人数が在籍している。誰のことも知らないわけだが、まあ多分、QuizKnockに属しているのだから言葉に神経を使うタイプの信頼できる人だろう、と楽観的に判断している。(実際に記事を読んだりすればその時点で評価し直すことになるが、最初から疑ってかかる態度で見る気はないということだ。)


 さて。ブログの話に戻るが、ブログの面白さはブログ記事の内容で決まる一方、ビジネスとして価値を決めるのはほとんどネームバリューの力だろうと思う。

 面白さというものの質が「誰でも話題にしやすいもの」であるならば、面白さがネームバリューに直結するわけだが、「うまく言えないけど、なんかいいよね…」みたいなものではいくら面白くてもなかなかネームバリューには結びつかない。いっそ「わけがわからないけどなんかウケる」という種類のものなら、その狂気に対する感想が一致するので「あのわけわからなくてウケる人」という共通認識が生まれる。でも、別に狂っているわけではない素朴に良いものとなると、どれだけ良かろうが目立つところがないので駄目だろうと思う。しかも、ネームバリューを得るためにセルフプロデュースを巧みにやってしまうと、その「セルフプロデュースしてる感」によって素朴な良さが消えてしまいかねないという難しさもある。

 つまり、「個人の総合的な表現」はネームバリューには繋がらないのである。「知っている人は知っている例のあの人」くらいにはなれるかもしれないが、全然ビジネスにはならないだろう。面白さを無償でばら撒くだけである。本にまとめるにしたって、たとえ内容が「素直に読めば面白いもの」であっても、「作者は『評価に足る人』だ」という保証がなければそもそも好意的には読まれないと思う。


 そこで考える。もし、「ここに属している人なら面白いぞ」という保証を持たせられる、「個人の総合的な表現」集団があったとしたらどうか。

 面白いライターを呼んで作られたサイト、というのならこれまでも数多存在しているが、サイトが主体というよりは、サイトも作るにせよ帰属意識のある集団というのをイメージしている。積極的に「個人の総合的な表現」について考え、それを突き詰める覚悟を共有している集団である。集団であることによって、それぞれが自分の関心に沿った記事を書くだけでなく、ブログについて考えるとか文章について考えるとか、そういうメタな視点を提供できるというようなイメージだ。

 想像でしかないが、この形式には難しさもあるだろう。面白さを保証しなければならないので、文章の質は集団内で厳しく査定される必要がある。集団のネームバリューを落としたら意味がないのだから、必ずうちあわせCast内で語られていたところの「面白い記事」でなくてはならない。仲良しグループの同人ごっこではやっていけない。そしてウケ狙いでコンセプトが外れてしまってもいけない。逆に内容の自由度を失ってもいけない。あらゆる匙加減を徹底する必要があるだろうと思う。

 あとはQuizKnockにおける伊沢拓司氏的な存在も必要そうだ。「その人が選んだのだから、その人と同じくらいの質の書き手なのだ」という価値を持たせられる大黒柱がどうしても要るだろう。特に文章だと「見りゃわかる」というものではないので、「事前に信頼を置かせる」というのは多分かなり重要だ。それを出版社にやってもらうのでないとすれば、やはり個人のネームバリューが不可欠と感じる。

 集団化を試みなければ「すごいあの人」が単発でちらほら出るだけに終わる界隈でも、QuizKnockが教育的コンセプトを核にした集団化によって「『偶々有名になれたクイズプレーヤー』がバラバラにいたクイズ界」に変革をもたらしたように、それまでと質の違う新たな世界を作れるのではと思う。というか、むしろ今が特別バラバラな時代なだけで、明治・大正の同人もそうだったのかもしれないし、梅棹忠夫らの時代の「当たり前に相互に言及し合う間柄」もある種そういうものだったかもしれない。



 面白い記事が増えるためには、面白い記事を書くことが何かをもたらすことを期待できる必要があると思う。そんなの何もないけど、まあ運が良ければ良い出会いがあるし、とりあえず書いて欲しいよね、と言っても……まあ多分、今より増えることはないのだろうと思う。何も希望が無い中でわざわざ書くような奇特な人間は既に書いている気がする。そして奇特でない人が耐えられるほど今のブログは良い場所ではないし、多分いくらか書いてみてもフェードアウトしてしまうだろう。

(ちなみにトンネルChannelという試みは、小規模ながら読者と出会いを保証しているから書く気を起こせるのだと思う。呼びかけた人や趣旨に賛同した人が、責任を持ってそれを維持できる範囲だから成り立つのではなかろうか。)


 奇人変人だけが残った結果、あるいは文章離れが進み過ぎた結果、「個人の総合的な表現」としての文章表現が逆に面白く思われる世界になる可能性はゼロではないとは思う。そうなれば読まれる機会も出会う機会も認められる機会も増え、書く甲斐のある環境が再興するかもしれない。

 個人的には、それには牽引役となる存在、それも「集団」が必要な気がしている。やりたいのは「"個人の"総合的な表現」であっても、そのコンセプトを共有する集団――早い話が「仲間」という存在――があれば、この剣呑なインターネットで個人が表現していられるための策として打てる手は増えるのではないか、ということも思う。


 イナゴが去り寂寞たる荒野となったブログ界隈に、一周回って春の芽吹きが訪れる日は来るだろうか。