うちあわせCast第百十五回を拝聴した。メモ術・ノート術・執筆術の違いが語られており、うんうんそうだよねと思いながら聴いていたが、それはそうと自分の「文章を書き上げるために書くもの」はどんなものかを考えると、なんだかよくわからないなという気がしてきた。
ブログ記事を書く時にエディタとして使っている画面は、上半分がアウトライナーで下半分が本文を書く欄になっている。アウトライナー部分には書くために必要な文字情報が並んでいて、それを見ながら本文を作っているということだ。
一応話の流れを整理することを念頭に置いて上半分にアウトライナーを配置しているのだが、しかし文章のアウトラインをアウトライナーに書くことはあまりない。全くないわけではないが、アウトライナーを使っている割にはアウトラインの整理が習慣になっていない。アウトラインを作らないアウトライナーとはこれいかに。
じゃあ何を書いているのかと言えば、まず正確に書かなくてはならない単語や貼る必要のあるURL、内容に関連して調べたものの類がある。資料としての「メモ」および「ノート」だ。その他は、だいたい「書こうとしているものに関連して思いついたもの」が書き留められている。これも「メモ」の範疇だろう。
あとは本文を書いている途中で没にした部分を「没」という項目の下に並べている。どの箇所から切り落としたのか、なぜ没にしたのかをメモすることも偶にある。
こんな感じでいつも何かはアウトライナーに書いているのだが、考えてみるとこれらはいずれも文章の道順を整理するものではない。
アウトラインを整理することを試みたことがないわけではない。でもあまりプラスに働いたことがない。
もちろん、アウトラインの整理が必要なほどの長さ、あるいはそれだけ体系的な内容のものを書いていないから、ということは理由のひとつではある。そういうものを書こうとしたらやはりアウトラインは整理しておかないといけないと思う。
ただ――これは比較的長い小説を書こうとした時のプロットなどもそうなのだが――「この内容をこの順で書いたら良いだろう」ということを予め並べておいた時、びっくりするほど書き進められないということが多々ある。書きながら思いついた時の「ピタリとハマる」感じがとても鮮烈なので、それが運任せにならないように前もって用意したいと思ったりするのだが、そうやって予め溜めた「使えそうなアイデア」は、書いている最中に降臨したアイデアとはどうも様子が違っている。(ここでは「展開」についてのアイデアをイメージしているが、その他のネタ全般もそうである。)
自分が書きたいメッセージや展開からしても、この内容はこのあたりに書いておく必要がある――そのような必然性をある程度の強さで感じて配置しているにもかかわらず、むしろそう配置したことによって、その場所にそれが書けなくなっているようにすら思える。実際その位置が適切かどうかに関わらず、「前もってその位置に置く」ということ自体が自分を邪魔している気がする。仮置きであっても、「置く」という行為が私にとっては既に枷になっているのかもしれない。(一応念を押しておくとこれはあくまで私個人の話であって、他の人もそうだとは全く思っていない。)
それでは私が書く時というのは何がどうなっているのか。
抽象的な話になってしまうが、どういう流れで書くかはほとんど「イメージ」で決めている気がする。読み手の気分の流れのイメージや登場人物の心情の流れのイメージ、その他諸々の「読み手」ないしは「作中に生きている存在」の何かしらの流れに沿って書こうとしている。そしてそれらは、「その場に至って初めてその先がわかる」ということが発生するものでもある。
このことは、Twitterで無限に連投できるタイプであることとも関係するだろう。普段は思うがままにはツイートしないようにしているので実際に表でバカスカ連投しているわけではないが、非公開のアカウントでは、非公開であるにもかかわらず、「読んだ人はこう思うはずだから続けてこう書く」ということを踏まえて果てしなく続いていくのである。
こういう「イメージ」に沿うという場合に、具体的に何に焦点を合わせているかは自分でも定かではないが、少なくとも理屈で決めているのではないことは確かだ。(ちなみに理屈でやろうとすると書き続けられなくなるということを前に書いた。(ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~))
ほとんど自分語りなのだから自分自身の気分の流れでやっているんじゃないのか、と言うと、それは案外そうでもない――というか、自分の気分はリニアにならないので、自分の気分に沿おうとしてもひと続きの文章にはなっていかない。これも一般的にそうと言いたいのではなく、私の頭の中がめちゃくちゃだという話である。ただしド下手問題シリーズ(アウトライナー編/ブログ編)は少し例外的で、あれは書きながら自分が変身しているので「自分の変化」という流れに沿っているが、そうやって自分自身を変える心づもりでいるのでない限りは、自分というより他の存在の流れを思い浮かべている。それにド下手問題シリーズにしても、変身の過程そのもの以外の要素は大方読み手の状況に沿おうとすることで成り立っている。
こう考えると、何らかの「沿うべき流れ」をイメージしているからには、それがアウトラインになるのではないかという気もしてくる。実際、多分頭の中で「もやもやとしたアウトライン」ができているのだとは思う。前に「アウトライナー的な文章」の印象を感じると言っていただいたことがあるのだが、それは恐らくそういうことなのだろう。
しかし、それを言語化して並べておくことができるかというと、これが全然そうはならない。自分の頭の中にあるイメージが失われるのが怖いので私としては書き留めておきたいのだが、そうやって書いておくことが功を奏したことはほとんどないのである。先述したように「その場に至って初めてその先がわかる」という事態が発生するせいもあるが、それ以上に言語化するということ自体に困難を感じている。私が何かを書く時にメインとなっているのは、情報として単語を並べて示せる部分ではなく、「繋ぎ」「文と文のあいだ」のところにあるような気さえする。
結局、いつも即興演奏のように文章を書いている。そして即興演奏を録音したものを後からいじって加工することで、聞くに堪える音源として完成させるというようなことをやっている。もちろん、文章を書くということは多かれ少なかれそういうものであって、予定通りになどいかないのが常であろう。しかしそれにしたって、自分はアウトラインを作るのが下手すぎるし、即興に頼り過ぎている。
アウトラインらしいメモをまともに作っていない状態でなんとなく何千字かの文章を書けてはいるわけだが、即興演奏的なやり方では流れを掴めない時に全く進まないのではという恐怖があり、アウトラインをうまく作って自分の波に左右されずにコンスタントに書けるようになりたいと常々思っている。もっと長い文章に対応できないのではないかという不安もある(対応する必要に迫られることがあるかどうかは別として)。どうにかして、博打的な要素をなくしたい。
しかしながら、どうもアウトラインの言語化がしづらい。その上、最初の方で書いたが、「位置づける」ということをした瞬間にその部分がむしろ死ぬような感覚もある。何が起きているのかを言語化するのは現状難しいのだが、とにかくそういうことがある。おそらくは、前もってやったがために実際に生じる流れというものを実質無視することになり、逆に位置づけの根拠が失われているのだろう。
と、ここまで書いてきて今ふと思ったのだが、もしかすると、アウトラインを「予定」として考えているから駄目なのではないか。それは「固定してしまっているから」という意味ではなく――つまりこれは「いつでも組み直していいのだ」という気づきではない――「ルート」として考えること自体が私と相性が悪い気がする。
そうではなく、「取り込むものの候補」を「より取り込めそうな順番」に並べただけのもの、として考える方が良いのではないだろうか。候補と候補の間には空間があるイメージで、そこは詰まるかもしれないし、他のものが入るかもしれない。そもそも取り込まないかもしれない。没にしたというより、候補でしかないのだから入らないこともある、という感覚だ。候補と候補の間にその二つが連続する必然性を予め見出そうとしないというのが肝心で、空間があるとはそういう意味である。
予定について「組む」と言うように、アウトラインでも「組む」ことを考えていたから(私にとっては)駄目で、いわゆるキュー(queue)としてイメージした方がいいのかもしれない。つまりアウトライン(輪郭)を浮かび上がらせることは考えない。なおキューと言っても一番上から消化しなければならないものではないとする。とりあえず並んでいるだけである。
これは今までやっていなかったことなのかというと、いや実際には普通にやっていたことなのだが、自分の中ではこの状態は中途半端だという認識があり、そこから更に「アウトラインらしく」整えていこうと一歩踏み出していたのが余計だった(その際の的を射ない感触から、反動で逆に無理して頭の中でなんとかすることが増えていたところに問題がある)。私の中ではアウトラインはもやもやしたもの以外のものにはならないのだ、とある種割り切り、書き進めているその最中で感じ取る流れに「じゃあこれ」と合わせられるように候補を漂わせること、そのうまいやり方を模索していく方が正解のような気がする。流れへの適応によって博打性をなくしていく感じだろうか。
ただまあ、頭の中のイメージや感覚的なものに頼っていることには違いなく、それが止まったら結局は……。しかしそもそも、その部分が死んだ状態で書いた文章には、最初から存在意義などない気もする。