2022-01-09

Scrapbox日誌:「整理したい病」には「放置」が効いた

 複数の情報を扱う時、何かしらの観点で括れそうな気がすると括りたくなる。

 物事と物事の間に共通点や相違点を見出すことは理解の基本であって、見出した瞬間には脳内に快感物質が出ている気もする。括れるところで括り、分けられるところで分けるのは気持ちが良いのである。

 それは同時に、括れるはずなのに括れていない、分けられるはずなのに分けられていない、という認識が自分を不満にさせる可能性も示している。

 

 自分がその不満に気分を支配されている状態を「整理したい病」と私は呼んでいるが、これに罹患していると毎日をもやもやとした気持ちで過ごすことになってしまうのでとても困っている。整理できていないことが気になって気になって、「あれ何とかしたいよなあ」とずっと考え続けてしまう。大抵のことは何とかしたからといって「スッキリした」という以上のものは得られないのだが、そのスッキリを味わいたいがために「きちんと整理されているべき」という客観的っぽい尺度を持ち出してきて自らもやもやとして生きることになる。勿論スッキリしようとすることは悪いことではないし、スッキリする瞬間を目指してウキウキとしていられるならそれは人生を豊かにするひとつの要素だとも思うが、しかしそれに「支配」されてはならないのである。

 「整理したい病」が根っからのものか環境・心境に依存する一時的なものかは人それぞれな気がしているが、私は自分のそれを長らく根っからの持病だと思っていた。身の回りの物や情報に片がついていないことにずっともやもやとして生きてきた。それを解決するには自分が望む形で整理を完了してスッキリさせるしかないのだろうと信じてきたのである。

 ところが、どうやらそうではなかったようだ。いや、どうあっても「整理したい病」の症状を発症しないタイプの人もたくさんいるであろうから、「発症し得る性質を生来持っている」という意味で最初から罹患しているのではあるかもしれないが、ただ生きている間じゅうその症状に悩まされるものというわけではなかったらしい。経験上、一言で言うと「行きたい場所がわからない」という心境の時、つまり「暇」な時に病に支配されるということが言えそうである。「暇」というのは毎日時間に追われているかどうかとは別の話で、自分の人生に於いて今この瞬間にどれだけの必然性を感じられるかという意味である。忙しくても必然性が感じられなければそれは自分の心にとってはぼんやり生きているのとあまり変わりがない。(ぼんやり生きるのが悪や愚だと言いたいのではない。)

 

 心境の如何については今は置いておくとして、私自身の「整理したい病」の発症と寛解が具体的にどこにどう現れたかをまとめておこうと思う。

 デジタルツールに関して言うと、最も症状が激しく手に負えない状態にあったのがEvernoteを使っていた時だ。十年から八年ほど前のことである。Evernoteが悪いのではなく、私の心がぼんやりしていたタイミングでたまたまEvernoteと出会ってしまっただけのことだが、「あらゆるものを入れられる」且つ「整理の方法に制限がある(工夫が必要である)」ということが「整理したい病」の症状を著しく増悪させたようには思う。

 最初に述べたようにこれは「括れるところで括りたい」「分けられるところで分けたい」という欲求なのであって、「探しやすいように」などという理由は自分の欲求を正当化する口実に過ぎない。よって、「検索で探せば良いんですよ」という対案は「整理したい病」を鎮めてくれることはない。本当に探しやすさを求めて「分類したほうがいいのかな」と思ってやっている人には効くだろうが、欲求で整理の罠に嵌っている人間には恐らく大した意味をなさない助言なのである。

 検索で探せば良いという在り方は、それ以前の情報の扱い方と異なり馴染むのに苦労するということも相まって、なかなか自分に取り込むことができなかった。ノートブックやタグを手がかりにした目視によって探してそれでも見つからなかった時にやっと検索に頼った。そうして見つかる度に「最初から検索かけてれば早かったな」とは思うのだが、じゃあ今度から検索に頼ることにしようとはならない。なぜなら情報群をうまいこと括りうまいこと分けることに欲求の源があるからである。「インターネットで調べ物をする時は検索エンジンで検索をかけているじゃないか」と言われても、それは自分に整理の権限がない領域であり他に方法がないから仕方なく検索しているだけのことであって、たとえ検索という行為が日常的であっても、自分の支配下にある情報に対してそれでいいと割り切る理由にはならない。そこですんなり割り切れるのがどう考えても健康的ではあるのだが、「整理したい病」に既に罹患しているのでそれでは解決しないのである。

 Evernoteのノートブックやタグの工夫については例が世の中にたくさんある。それらを眺めては「頭に記号や数字をつけて自分好みの順番に並べよう」とか「こうもり問題が生じるノートブックではなくタグで分類しよう」とか「いや用途がはっきり分かれるものはノートブックできっちり分けておこう」とか色々考えてあれこれ実践していたわけだが、最適解に落ち着くことはついぞなかった。情報源となっている人々がそれぞれ自分なりの方法論で納得しているらしいことを羨ましく思いながら、どの人のやり方もそのまま馴染まずに終わった(その人たちが本当にそのやり方に納得して落ち着いていたかはわからない)。肝心の情報の活用より情報の整理に多大な労力と時間を割いていたし、今当時の自分を振り返るともはや滑稽である。いかにも「暇」という感じがする。

 やがて、情報整理以外に新たな趣味を持ったことで「整理したい病」の症状は若干緩和し、Evernoteへの諸々の不満も重なってEvernoteとの格闘はフェードアウトした。Evernoteに保存された情報はそのままの形で今に至るまで残っている。その後アクセスした回数は指で数えられるくらいしかないし、あれほどたくさんの情報を突っ込んで整理に躍起になっていたのに、実体はそんなものなのである。別に中身がゴミというのではなく、思い出としての価値はあるし見返してみれば懐かしさに心温まりもするが、整理に労力を費やさねばならないほど情報として重要なものを扱っていたわけではないのだ。

 

 Evernoteとの戦いが終わっても「整理したい病」が完治したわけではなかった。趣味によって「暇」な度合いは僅かに軽減されていたが、その後はツールを転々としたりDropboxに置いたファイルのディレクトリ構造をごちゃごちゃ捏ねたりという形で症状が現れていた。もやもやした気持ちがなくなることはなく、そのうちにScrapboxに行き着いた。

 Scrapboxでもまた「整理したい病」の症状に苦しむことになった。とはいえ、Scrapboxのコンセプトからして「きっちり整理する」というのが最適解でないことは最初から解っていたし、自分の個性としての整理したさとどう折り合いをつけるかがテーマになっていった。つまり、「整理」からどこまで離れていってなお安心感を維持できるかを探る試みが始まったということである。私の人生は「整理したい病」とともにあったが、「整理したい」と思うことをいい加減やめてしまいたかったのだ。

 一方で整理の方法が判らないのが不安の一因になるので、Scrapboxに於いても整理が成立するにはどういう方法があり得るかを考えることにはそれなりの時間を使った。多少実践したが、大体は途中で飽きてやめることになった。Scrapboxの場合、大雑把に言ってしまうとタグというのは「リンクをタグと見なす」というだけのものなので、そう見なさなくなれば単にリンクに戻る。他のツールのようにサイドバーにタグの一覧が並ぶわけでもなく、タグだという解釈をやめるだけでその方法はそこで終わりになるのである。ツール全体の構造を左右しているわけではないから、整理に失敗したものが残っていても、新たにページを作ったり他の方法を始めたりすることに支障はない。

 色々なタイプのページを作り色々な方法で整理を試み、プロジェクトも増やしたり統合したりして、やがてメインのプロジェクトのページ数が2000ほどになった。もやもやし続けていたが、もやもやしたままそれだけのページ数をScrapboxというひとつのツールに作ったのである。Evernoteのページ数はそれどころではなかったが、Evernoteの場合はwebクリップやファイルの保管のためのページが相当数あってのことだから、多くが自分で書いたり構成したりした情報で2000ページになったことは自分としては驚くべきことだった。数多の場所に分散せずにひとつのツールの中にあるということがポイントである。

 

 しかしもやもやした気持ちも相当に膨らんでいた。2000ページの内訳をおおよそわかってしまっているので、あの類の情報はこうした方がとかこっちはこう括った方がとかあれこれ考えてしまうのである。リンクしてほしい情報間にリンクがないこともわかっているから、全部見返して適切なリンクを付けて回りたいとも思った。いずれも作業の量として現実的でないから実際にローラー作戦に出る愚はおかさなかったが、気になる気持ちはいつまでも消えなかった。

 その気持ちに疲れてきて、また他のツールへと旅立ちうろうろと彷徨うことになった。半年ほど他所で悪戦苦闘し(その苦闘についても色々書けそうではあるが、ここでは省略する)、しかし結局Scrapboxに戻ってきた。戻ってきたきっかけは何だったのかはっきりしたことは忘れてしまったが、今思い返すに恐らく「のらてつ」としての活動のために公開プロジェクトを使うことにしたから「非公開の情報の拠点もScrapboxの方がやりやすい」と考えたのではなかったかと思う。他に理由があったかもしれないがパッと思い出せない。

 そうして2000ページのプロジェクトに戻ってくると、半年間他の場所で戦っていたことによって、Scrapboxの中身がほとんどわからなくなっていた。半年の間ただぼーっとしていたなら中身を覚えていただろうと思うのだが、他のことに意識を割いていたのでScrapboxの方は脳内のリンクが細くなったような状態で記憶が不鮮明になったらしい。思い出そうとすれば「こういうページがあったはずだ」と思い至るが、自分の頭の中を埋め尽くすような感じではない。

 すると、雑然とした一覧画面を前にして、意外にも「まあいいか」と思った。Scrapboxの情報は整理されていないままなのでまた整理したくてたまらなくなるだろうと思っていたのだが、どうやら整理されるべきものが曖昧になってしまったので、整理したい欲も発症しようがなくなったようである。

 

 これは最近のことなので、もはや昔のものになってしまったEvernoteのことはこの時すっかり忘れていたのだが、考えてみるにEvernoteの方も同様である。情報はまともに整理されていないし、過去の自分の変な工夫が邪魔になってノートブックもタグも今となっては全く当てにならない始末だが、「まあいいか」という感じである。今更整理するのは現実的に無理だし、もうどんなものが入っているかわからない。そう、「わからない」から整理する気にならないのである。

 検索エンジンでインターネット上の情報を探す時も、何が世の中に存在しているのかをわからない状態である。整理しようがないし、整理されていないことが気になることもない(例えばWikipediaの内容などは何かしらの基準で整理されていてほしいが、インターネットそのものは整理されていなくても構わない)。それは全体像がわからないからだ。括るにも分けるにも、基準が必要になるわけで、基準は全体像となるものを認識しているから生まれるものと思える。何を全体像にするかはその時々で、自分が全体と見なしたものが真に全体である必要はないが、自分なりにこれが全体だと決められないことには整理ができない。ひとつの情報と情報の間をその都度つなぐことはできても、「こう括ることにしよう」「こう分けることにしよう」と決めることは難しいのだ。

 自分の手で作ったり集めたりした情報は自分である程度覚えているので、何かのツールを普通に使い続けていればずっとおおよその全体像を把握していることになる。何が入っているのかわからないということにはなりにくい。そうすると整理の基準を考えることができてしまうことになる。解決策のひとつとして、思索や収集を加速させたりランダムにしたりすることによって「もはやわからない」ということになる可能性を上げることはできるかもしれない。ただ誰でもそうなれるわけでもないし、いつでもそうあれるわけでもなさそうである。私の場合は、十分な量を蓄えた状態で十分な時間離れたことにより、偶然にも「もはやわからない」という状況に至った。

 また、Scrapboxにはそれ自体に他のツールのようなタグやノートブック的なシステムがないことによって、わからなさを気にせずにまた同じ場所で再開できているのも重要なことである。例えばEvernoteはそうではないので、Evernoteに拠点を戻すことは難しい。ツールの機能の如何とは別の問題として、自分が構築したものに手を加える必要が生じるのがネックになる。それが実のところ非常に大変なことなので、もし戻るなら新たにアカウントを作ることになってしまう気がする。

 

 そういうわけで、Scrapboxに詰め込みに詰め込んで一度放置したことが、結果的にScrapboxのコンセプトに沿った現実的な運用を自分に馴染ませることに貢献した。これは自分にとっては全く予想しなかった展開で、今は「おお、Scrapboxを気楽に使えているぞ」という感動を日々感じている。何が自分の枷を外してくれるかというのはわからないものである。

 なお、途中で「『整理したい病』の発症と寛解」と表現したが、これはあくまで寛解であろうと感じている。整理に労力を費やす以上に大事なことがはっきりしていれば惑わずに済むだろうが、それが曖昧で少しでも「暇」になると、上述したように全体像を意識し次第に整理したくなってしまうであろうし、その性質が消えることはないように思う。自分を蝕んでいるので「整理したい病」と表現したが、整理する基準を見出して整理しようとすること自体は別に滅すべき悪しき性質ではないだろうし、それがプラスにだけ働くように自分で手綱を握り、暴走を防いでいけたらそれでいいだろうと思っている。

 今回書いた「もはやわからない」は対症療法だが、そもそも「暇」にならないことも重要な点である(話が大きくなるのでここでは触れないでおく)。