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2024-02-11

「名づけ」を考える ②忠実な実践のための言い換え

 前回の記事はこちら。

 

 前回の最後に以下のように書きました。(なお「ワールド」と書いたのは「○○ワールド」的な用法を念頭に置いていたためです。例えば私の世界は「のらてつワールド」です。)

あるメソッドで使われている語彙が「その人のワールド」のものに過ぎないことを踏まえれば、それをなぞらなくてもいいこと、自分の世界の言葉に翻訳した方が馴染むであろうことがなんとなくイメージできるのではと思います。表現を変えてもそのメソッドの有効性がただちに崩壊することはないということです。

 こう書いておいて「とはいえ」と言って終わりにしたわけですが、やはり言い換えをするにも留意すべきことはあると考えています。

 もしメソッドを忠実に実践しようとするならば、重要なのは「自分の世界の言葉に翻訳する」ということです。つまり翻訳として妥当であることを目指す必要があります。(そもそも忠実になぞろうと思っていないというパターンもあると思います。今回はあくまで「忠実に実践する」場合を考えます。)

 

 私はTak.さんのライフ・アウトラインを以下のように言い換えました。

  • 日々=DO-DAYS(日々のDO)

  • 地図=DO-ALL(すべてのDO)

  • 内政=LIFE-BE(自分)

  • 外交=LIFE-AS(関係)

 イコールで繋いでいる通り、これは私の中でほぼイコールになっているわけです。アレンジしているのではないということです。

 というのは、例えばTak.さんが「LIFE-BE」という言葉によって指し示している内容を、私は「LIFE-BE」という表現では直感的にイメージできません。「LIFE-BE」のままだとTak.さんのイメージとは異なるものが頭に浮かんでしまうことになります。つまり、そのままだとかえってメソッドを忠実になぞれないということです。

 馴れ馴れしい言い方になりますが(すみません)、Tak.語とのらてつ語は傾向としてちょっと遠い位置にあるので、翻訳しないと自分の世界の概念に繋げられないわけです(逆にTak.さんから見てものらてつ語は翻訳の必要が生じると思います)。つまり私の言い換えというのは「Tak.さんのメソッドを忠実になぞるために、忠実に翻訳する作業」ということになります。

 もちろん、言葉を変えてしまっているので別なニュアンスが新たに生まれたり元あったニュアンスが削られたりということは発生し得ます。それは英語の本を日本語訳する時に発生することと同じです。必ずしも良いことではないでしょうが、Tak.さんはライフ・アウトラインの実践においてそれを積極的に歓迎していらっしゃるということだと思います。

 

 結果的にどういう表現になっても構わないという意味で「名づけ」は自由なものだと思います。ただしそれは「どうであってもいい」ということではなく、「名づけられる対象」が自分の目で見て如何なるものであるのかを見つめ続けることが重要だと私は考えています。

 倉下さんがうちあわせCast第百四十六回にて仰っていた通り、「自分の感覚・知覚にできるだけ沿うような形で言葉選びする」ことが非常に大事だと私も思います。良くも悪くも言葉があるとそれに引っ張られてしまいます。連想ゲームは意図せず進行してしまうものです。なので、対象がどんなものであり、それが自分の感覚・知覚においてどう表現されるべきか、じっと観察する必要があるでしょう。どちらかと言うと、「名前をつける」のではなく「名前が見出される」感覚になろうかと思います。

 トレーニングが必要だと語られていましたが、やはり格闘は避けられないことです。でも、「こうか?」「いやこうかも?」と答えをころころ変えても構わず、それをジャッジしてくる他者もおらず、遊びのように楽しんでよいことであり、「うまくなるにはトレーニングが必要だ」ということは「大変な苦痛を伴う」ということを意味するわけではないので、気軽に取り組むのがよいと思います。別に元々の名づけに従ってもいいわけで、表現とイメージの間のズレを補正する必要があるのかどうかは人それぞれかつ言葉次第ですね。

 

 まだ続きます(多分)