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2020-04-07

「こころのそっくりさん」を探す

noteを始めた当初は、一人でも多くの人の役に立つ何かを発信しようと考えて、「自分だからわかること」を書こうとしていた。  

それも大事なことだとは今でも思うけれど、自分はそれを原動力に動き続けられるタイプではない、と後れて気がついた。  

もっと言うと、「人の役に立つ」ということを本当に望んでいたわけでもなかった。

人の役に立っているっぽい人はキラキラしていて眩しいけれど、それは私にとって目標ではなくて漠然とした憧れに過ぎず、自分にできる自然な努力の延長にある姿ではない。

本当に自分が望んでいるのはなんだろう? と考えると、たぶん、自分とよく似た人間を見つけること、そして自分の言葉をそういう人たちの気に留めてもらえることだと思う。  

私と近い感性を持った人が、私の言葉を引用して何かを語ってくれたら、それが一番心躍る瞬間だろうと思っている。

その人たちと個人的な繋がりを持ってコミュニケーションをしたいかというと、そういうことが嫌だと思うような偏屈な性格ではないものの、それが至高の喜びとなるかというとそうでもない。  

誰かが私と話すことによってセレンディピティを得て飛躍してくれたら嬉しいし、私も誰かとの対話によってそうなれたら幸せだ。ただ、誰かとの「繋がってる感」にはあんまり関心がない。互いに好きなタイミングで「おい、何か発想を得たいから、刺激になりそうな面白い話をしてくれよ」と言い合えるような関係は持ちたいと思う。というか、自分の人間関係がすべて最終的にそういう形に落ち着いていったらいいだろうなと思っている。


とりあえずネット上の関係としては、自分が何かを書いて、それが自分と似た誰かを刺激すること、自分が自分と似た誰かの文章から刺激を得ること、相互にそれが起きていることを互いに意識してるっぽい状態、が多分一番心地良い。  

話しかけて会話をするよりも、それぞれの文章の中で引用し合って持論を広げていったほうが双方にとって建設的で気分がいい場合もあると思うし、私はそういうタイプの人間のようだ。それも広い意味では「交流」の範疇に入ると考えているけれど、今まで経験してきた「交流」はだいたい会話というものが想定されていて、それはもちろん悪くないんだけれど、なんとなく私個人は不自由を感じてきた。  

会話という格好になるとあれこれ余計な気を回して自由に発言できなくなる性格であることが大きいかもしれない。直接会って話すことが、会わないで文章をやり取りしている時より自由であったためしがない。  

会話したいときに会話できる関係でありながらも、メインはそれぞれの思索を深め広げていくことにあって、それが相互に幸せなことであるのが理想、と感じている。


だから、自分と似た人の目に留めてもらえるように、自分の自然な言葉、自然な考えを素直に書いていきたいと思う。  

そして、私の文章に対して「あ、自分と似てる」と感じた人が私の文章を引用して何かを語ってくれたらと願っている。それは私の考えを世に広めてほしいとかいうことではなくて、同じ波長の存在同士で何かを感じ合えたら幸せだと思うからだ。表現の全てで波長が一致するわけではなくとも、一部でも「似てる」と感じられることはきっととても貴重で素敵なことだと思っている。波長が似てるっぽい人々の間でゆるく存在を認識し合ってる状態を作っていきたい。


今はまだ自分の中のごく一部しか表現できていないし、世の表現者のごく一部のことしか存在を知ることができていない。  

自分と似た人に気づいてもらえるようにせっせと書いて、自分と似た人を見つけられるようにせっせと読んで日々を過ごしていこう。