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2020-04-05

誰かにとっての「今更」は誰かにとっての「今」だ、という今更のこと

人間が何かを体得していくには過程が存在し、最初の一歩を踏み出したばかりの人もいれば、もう何百歩何千歩何万歩と歩いている人もいる。  

そして全ての段階で何かしらの感動・気づき・悩みなどが生まれていて、それをその都度発信したとしたら、必ず誰かは同じステージにいて内容に共感することだろう。

このことはとても当たり前のことと思うのだが、その一方で、そういう全ての段階に於いてそれぞれ行われるアウトプットを許容するのは思いのほか大変なことのようにこの頃感じている。

自分が既に先を歩いているときに生じる、「その程度のことを書いてどうするのか」「それは正確な理解じゃない」などという雑念を捨てるのが難しいのだ。相手が学生ならそんなことは思わないけれど、社会人と思しき人が書いたことだと無闇に判定を厳しくしてしまうことがある。  

そして同時に、自分が何かを書き留めたいと思っても、もっとすごい人に怒られたり見下されたりするかもしれない、なんていう要らぬ不安(つまり自分が生み出した幻影)に苛まれて、自分の感じたことはあくまで自分の中だけのものとして半径15センチの世界に留まってしまう。


こんなひねくれたことは考えたこともない、あるいは、気持ちはわからんでもないがそういう感情に負けることはない、という人はとても素晴らしいし、全ての人がそういう泰然とした姿勢で生きていけたらいいと心から思っているのだけれど、悲しくも人生の早い段階で他罰的な考え方に汚染されたことがあるとなかなかそこから脱することができない。  

その愚かさをもう自覚しているので、悪しき感情に襲われたら反射的に撃退してその感情に染まらないように自分の心を守って生きているけれど、悪しき感情がちらりとでも生まれてくる事自体が不本意だし、精神的に参ることがあると撃退する力がなくなって敗北することもある。そんなときはアウトプットしない、というのを最後の砦として、どうにか人の活動の邪魔にならないようにしている。


未熟な段階の「こうすればいいとわかった!」系の記事が世に出たときにおかしな悪感情に襲われるのは、それが自分以外の誰かの中で何かしらの影響力を持ってしまうのが嫌だからだと思うのだが、それは大抵余計な心配なのだ。(もちろん誤った情報はあってはならないし、所謂デマの類はここで想定している中には含めない)

その程度のことは自分だってわかってたと思うのなら、それはその時に自分も書いていればよかった話で、誰かの目を気にして黙っていた自分が愚かだっただけのこと。  

同じような内容は既に溢れているし後から書いた人が何かしらいい思いをするのはずるいと感じるのなら、それは自分も一切いい思いをする資格がないということであって(自分にできることはほとんど全て誰かが既にやっていることのはずだから)、そんな不条理なことはないと気がつかなければならない。  

これを鵜呑みにする人がいたら困ると心配するのなら、別に大抵の人は丸ごと鵜呑みになんかしないし、鵜呑みにしたところでそれが間違っていれば壁にぶち当たるのだからそれぞれ自分の責任で認識を改めていくし、いずれにしたって余計なお世話なのだと知る必要があるだろう。


感動や気づきや悩みは、ちょうど同じ段階にいないと鮮やかに共感することができないし、他の誰も自分が共感できることを書いてくれなければ、自分ひとりがちっぽけなことに感動したり今更なことにやっと気づいたりしょうもない悩みを抱えていたりするのではないかと不安になってしまうだろうと思う。  

自分にとっての「今更」は、誰かにとっての「今」であって、全ての段階について誰かが「今」のものとして発信してくれることが、きっと皆の人生を豊かで安心なものにしてくれる。  

なので、自分も自分にとっての「今」を書き残していかなければと思うし、それが誰かの「今更」であっても、また、誰かの「今」と重複していたとしても、気にすることはないのだと思う。自分の中だけで完結してもいいけれど、人の素朴な文章に気持ちが明るくなることはよくあるので、どうせなら外に出したほうが、ひょっとするとどこかに良いことが生まれるかもしれない。