2022-07-01

令和の「同人」としてのトンネルChannel

 先月末に倉下忠憲さんが「トンネルChannel」というSubstack(メール配信できる共同執筆ブログ的なもの)を開設なさり、面白そうと思って参加することにした。先月中に記事を2件投稿してみた。


 前々からそういう構想があったことはTwitterのコミュニティで拝見して知っていたので、しばらく様子を見て自分が入っていっても大丈夫なものか判断できたら末席に加えていただこうかしらと思っていたのだが、なんというか、さっさと参加者になった方が「大丈夫じゃない」状態にならないのではと思ったので結局早めに参加してしまうことにした。

 この構想に興味のある人はそこそこいると思っていたので、数日経ってから志願した私は四番目か五番目くらいになるかなと思ったが、思いがけず(テストに協力なさっていた富山さんを除き)一番乗りみたいなことになってしまった。そんなこんなで恐縮しながら書いている状態なのだが、温かい反応をいただいて少し安堵した。


 トンネルChannelの全体像を知ることのできる記事のまとめや大雑把な概要については、個別ページを作ったのでご興味のある方はそちらを見ていただきたく。


 構想時点のお話をちらちら見ていて連想したのは、明治・大正・昭和初期にあった「同人」のイメージだ。現代で同人活動というとアマチュアの(そして特にパロディものの)創作・出版活動のことを指すことが多いが、その形の同人ではなく、「白樺」とかの意味での同人である。

 といっても高校の国語の授業でさらっと聞いたくらいで当時の同人活動については全く詳しくはないが、以前から漠然と、「〇〇荘」的な場所に集まったり文通したりで思想的・哲学的刺激に富んだやり取りを交わす関係性、というものに憧れを抱いていた。文学史や美術史に刻まれる一歩がそういったところから踏み出されたケースは高校で習うだけでも数々ある。

 おそらく、そこに属した人々はそれぞれ単独で活動していたらそこまでの力を持てなかったではないかと想像している。各々優れた感性を持っていても、化学反応を起こして力を引き出してくれる存在や、思う存分発揮した力をお披露目する場がなければ、ムーブメントにはなれないのではないか。絶対に無理ではなくとも、容易でないのは確かだろう。


 そこまでの「時代を変える」かのような先鋭的な力をこのトンネルChannelに期待しているわけではないのだが(程度の話ではなく、そもそもそういう方向性のものではないと思う)、上述した「『〇〇荘』的な場所に集まったり文通したりで思想的・哲学的刺激に富んだやり取りを交わす関係性」は再現できるのではなかろうか、と思っている。何も高度な話をしようというのではなく(まず私ができない)、「個人の思想を話し合える」ということが既に貴重になっているこの時代で、そういう感性の居場所が確保されることになると良いと考えている。

 明治・大正・昭和初期のことは、後に有名になった人々の活動を遡る形でしか知らないので、世間一般でどうであったのかはわからない。大学生に限って言えば今よりは思想的・哲学的な対話というのは普通のことであったのではないかと想像するが、それでも「世の中」がそうであったとは到底思えない。世間の人間の思慮の浅さを嘆く文章が生まれなかった時代はないだろう。いつでも思想を交わす関係はレアなのだ。


 ここで述べている「思想」とはつまりある種の「自分語り」である。より限定的に言うと「私たち語り」になるかもしれない。自分という一人の話ではなく、自分のような存在の話だ。これこれこういう特徴を持つ自分はこうなのである、という話をした時、その特徴があまりに個性的ならばほとんどその人ひとりの話をしているようではあるが、しかしそれでも「これこれこういう特徴を持つ人間」という「私たち」の話であるはずだ。

 そういう「私たち語り」をするのは、現代では世間一般はおろか大学生ですらもはや希少な在り方になってしまっている。インターネットが生まれてブログの文化ができた時点ではそういった語りがある程度復活したはずだが、アフィリエイトとPV志向がそれを破壊したのだろう。時を経てTwitterが隆盛し、「そういうタイプの人間もまだあちこちにいる」ということはわかるようになった。Twitterというメディア自体がその活動に向いていないのがもどかしいが、ともあれ「まだ絶滅していない」ということは実感できる時代にはなっている。

 noteはTwitterの短所を解決するかに思えたが、内容として思想的でないものも大量にある以上、結局雰囲気としてはTwitterと同じようなものではないかと感じている。どうにもSNS的過ぎる。「スキ」の数という指標があまりにも邪魔である。というかそもそも思想としての「私たち語り」をするには大衆的過ぎる。もう少し地下か路地裏かに潜むようでないと話しにくい。noteが駄目だという話ではなく、「私たち語り」の場として合っていないのだろうということだ。他の用途のための場だなという感じがする。


 そういえば、トンネルChannelについて語られたうちあわせCast(第百七回)でScrapboxの共同編集についても触れられていた。私も知識を集めるにはScrapboxは非常に有効と思うが、思想的な話は難しいと感じている。いや思想というか、抽象的なアイデアを共有するというのが難しい。

 アイデアというのはその人の自尊心などと固く結びついていて、切り離すことは感情的に難しいと思うし、切り離そうとするべきでもないだろう。企業で行うブレストは個人ではなく企業(ないし企業内のチーム)が主体だから成り立っているのであって、「知的生産を試みている者同士」で同じようにできるわけではないように思う。よって、「私たち語り」をするのであれば、知的生産の産物を発表し合う形でしかうまくいかないのではないだろうか。Twitterでならぽんぽん出てくるのも、それは「何月何日何時何分に私がこの言葉でこう述べた」という証拠が残るからであろう。逆にそういう証拠が個人に紐づく形で残ると困るタイプの人は匿名掲示板などで生き生きとするかもしれないが、そういうタイプでないと匿名性はむしろやりにくさに繋がることになりうる。

 Scrapboxは別に匿名の場というのではないので、自分で各行にアイコンを入れていけば良いのだが、複数行書いた時などに他の人のコメントが複雑に入ったりするとだんだんどこからどこまでが誰の発言かわからなくなってくる。発言を他人が分断できてしまうのである。そもそもアイコンをその都度付けない人もいる。そういったことが曖昧でも構わないような内容(知識重視だとか雑談だとか)か、あるいは明確に目的があってそれを達成すれば構成員全員のゴールになる形(企業のチームが使うプロジェクトなど)なら支障はない気がするのだが、多分、具体的なゴールがなくグループにもなっていないばらばらの個人の集まりで「アイデア」を交わすにあたってはその曖昧さはネックになってしまうと思う。他人のアイデアを元に思いついたものをその後どうしていいかもわからない。グループの形を取っていない以上、権利関係が感情的に片付かない。「これを元にしている」と言うためにも、各々のアイデアは知的生産の産物の形を取っていてほしいところがある。


 脱線したが、つまりトンネルChannelには「これまでだんだんと薄れていったもの」を再び濃く色づけていく可能性を感じられる。戦前の偉人たちがやっていたことを、令和の今になって、しかもオンラインで体験できるのではないか。私は偉人ではないので歴史を変える力は持てないかもしれないが、私という個人の歴史はちょっと変わるかもしれない。全てはやりように掛かっているが、その「可能性」はここにあるという感じがする。



 個人的にこうなったら良いなと思ってはいるものの、トンネルChannelをそういう方向に引っ張りたいわけではなく、それぞれの活動の結果で場として自然な方向に漂っていけばいいと思っている。なので、トンネルChannelにポストすることはしないで自分のブログに書くことにした。