2022-03-05

ブログの書き方ド下手問題⑧~文章にするの面倒くさい問題~

 久々の「ブログの書き方ド下手問題」更新。

 これまではブログに書いて発表するにあたっての精神的な枷について考えてきた。今回は少し方向転換をして「文章にするの面倒くさい問題」に挑むことにする。

 

 これは今まさに自分が困っているから扱うことなのだが、書けそうなことを実際に書いていくというのが大変に面倒くさい。「これについて記事一本くらいにはなるな」と思うものが溜まる一方で、結局全然書いていない状態が続いている。この一ヶ月ほどはJavaScriptいじりに熱中していたこともあるが、そちらに熱中しっぱなしでブログ更新を挟まないでいたのはつまるところ面倒くささに負けたからである。

 前回までは「これを書いていいのだろうか」「読んでもらうに足る文章になっているのだろうか」といった迷いに対する解を探し、その点については既に解決している。今抱えているものに関してそれを書いていいという許しは自分に対して出しているので、「こんなことを書いてもな……」という足枷はもうない。しかし書いていないのである。形容するとすれば「やる気が出ない」という状態だが、単に気分的な問題ではないような気がするのでもう少し考えてみることにする。

 

 「これについて記事一本くらいにはなるな」と思うものがいくつかリストにあると、書くものがないという不安を退けられるので大分安心する。いつでも何かを書けるかのようである。

 しかし実際には必ずしもそういう状態にはない。書けるはずなのになんとなく書けないんだよなあということになる。なんとなく書けないのではなく明確な理由があって書けないのだと思うが、それが解決される瞬間に自覚的でないことも多いので、結局なんとなく書けるようになって「なんとなく書けなかった」という認識で終わってしまう。もちろん、そんな停滞とは無縁な人もいるだろうし、そういう人は無意識下で有効な手を打てているのだろう。

 なんとなく書けないでいるうちにリストには次々とネタが溜まっていき、前に追加したネタは相対的に古いものになっていく。するともはや臨場感を失って書くことができないという気持ちになる。そういう気持ちになるだけであって実際にそうなのかは疑問の余地があるわけだが(もし本当にそうなら自伝などはとても書いていられないのではなかろうか)、ともかくそういう気持ちになって熱意が削がれがちである。

 この「なんとなく書けない」とは何であろうか。

 

 そもそも考えを文章に起こすのは面倒くさいものである、ということもひとつの真実ではある。言葉になっていないものに対して、自分の頭の中にある語彙を次々引っ張り出して適切なものを選択していかなくてはならない。文章にするからには論理の関係や全体の構成も踏まえる必要がある。抑えなくてはならないポイントがいくつもあり、それら全てがすんなりいくことはそう多くはない。一方で、波に乗れば何の苦労もなく数千字数万字とさらさら書いていける場合があるのも事実だ。

 まず文章になるというのはどういうことかというところから確認する必要があるかもしれない。全ての種類の文章について語るのは難しいので、とりあえず私自身が悩みから解放されるために、私が書く題材としている「私が得た気づき」をどう書けばいいかということに絞ることにする。

 このことについては既にブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~で記しているが、気づきを書きたいのであればまず経緯を明らかにする必要があるというのが最も肝要と思う部分である。何かが不十分であった過去という経緯があり、何かを気づいたり獲得したりすることによって変化し、より良い状態に至ったという流れが文章の骨格となる。逆に言えば、そういう骨格が見出された時、そのことについて話さずにはいられなくなるとも言える。巷にはそういう話が無尽蔵に溢れている。

 次々と文章が生まれて流水のように書き連ねていられる時というのは、書けば書くほど新たに経緯と変化を発見している状態なのではないかと思う。書き始める前には気づいてもいなかったことに、書いているうちに思い至る。するとここに重要な変化があったのだとわかって、そのことを書かずにいられなくなる。そうして書くと再び別の変化に気づいて、そのことを書き足していく。そうやって文章が文章を生んでいく。

 

 では、「これについて記事一本くらいにはなるな」と思いながら「なんとなく書けない」というまま停滞している時はどうしてそうなっていかないのか。

 典型的な失敗例としては、「これについて」の「これ」が名詞であるパターンだろう。「これについて書ける」と思った瞬間は何かの変化がそこにあったからそう思ったはずだが、それがメモした時点で反映されず、ただ「ブログについて」とか「○○法について」とかいった形で書き留められ、いざ書こうとした時にそこにあったはずの変化を鮮やかに思い描けない。頑張れば思い出せるかもしれないが、頑張るのが億劫で後回しになる。時間が経つとそれを思い出すためには認知資源を大量に消費することになってしまう。

 「これ」のメモが不十分であったために後から文章にできなくなった、ということ自体は恐らく多くの人が気づくであろう。「何のことだったっけ」と思うからだ。しかし、何のことかがわかりさえすればすらすら書けるというわけではないのである。名詞としての解像度を上げてメモしておいても、それを文章に構成するのが大変であれば結局書かれないままになる。メモした瞬間にあった鮮烈な感動はいつの間にか褪せて失われている。

 「これ」に感動したから何かを書こうと思ったという時、そこで意識されているのは「これ」そのもの、またはそれに対する感動だが、文章にするのであれば文章としての未来をそこで設定しておく必要があるのだろう。あまりにも自明であれば省略しても問題ないが、常に省略していると、気づいた時には既に風化して取り返しがつかなくなっているという事態に直面する。一手間かけて、「これ」と出会う前と後の状態を書いておく必要がある。

 

 つまり、メモするにあたって「これ」を名詞ではなく状態の変化として書き留めておくと後から文章にしやすくなるのではないか。しばしばブログ記事のタイトルに「○○したら△△になった」という形の表現が見られるが、それは要点としてとてもよくできていて、ただ読者を惹きつける手法としてだけではなく、後日文章を書く自分を惹きつける言い回しとしてメモに使うと有効に思える。変化を引き起こした事物そのものではなく自分自身の体験・体感にフォーカスしたメモを作るのである。

 既に名詞でメモしてあるものについては、変化を自分に問うテンプレートを作ると良いだろう。「Before」「After」の二点を問うだけでも随分違う。新たな概念を思いついたという場合でも、その概念がない状態とある状態とで比較すればその概念が如何に重要かを自分で実感できるだろうし、そうすればモチベーションの強化にもなる。文章の組み立ても自ずと明らかになっていくかもしれない。

 

 

 余談だが、今回の記事は実は「過ぎたことは書きにくい」というのを仮タイトルとしてスタートした。しかし考えていくと「過ぎたこと」なのが原因ではないような気がして、捏ねているうちにこういう展開になった。練ってみるまでわからないものである。